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孤独を力に変えた者にこそ、勝利の好機は訪れる。リバティアイランドに抗う

昔から共同体の一員であることをよしとしないところがある。これはもう物心ついたころからなので、私の根底にあるものとして、なくなることはないと覚悟を決めた。かつてはこれを直そうと努力してきたが、どうにもならなかった。あらゆる集団のなかで、どこか同じ方向を向けない自分がいて、疎外感にさいなまされたものだ。もちろん、いじめられるなど物理的に虐げられることも経験したが、それ以上に自分から一歩引き、輪に入っているようでその縁をウロウロしていた記憶が強い。

ひとりでいることに躊躇いもなく、むしろ自分一人で動き回ることを好む。これは共同体が悪いわけではなく、もちろん、私が悪いわけでもない。性質を譲ってでも共同体に溶け込むというのは、決して自然なことではない。だが、なんとなくそれを強制されている気がして、自分を責めることもあった。そんなことは意味がないというか、窮屈になるだけだと理解できるようになったのは、つい最近のこと。そして、誰もそんなことを強制してもいない。

ひとりでいたければそれでいい。毎日、自宅でひとり、作業に没頭する日々を手に入れ、自分としては快適なつもりでいた。最近、渇きを感じて、バラエティ番組を漁っている自分がいる。ゲラゲラと笑い転げたいからだ。そんな渇きをどう解消し、どれほど引き受けられるのか。共同体の外にいる人間にはそのバランスが必要になる。都合のいいときも悪いときもひとりというのはそんなものだ。

今週は、リバティアイランドのそれが話題の中心だ。まあ、そうだろうと思う。オークスの1秒差は決定的で、実力でこれを覆す馬はいないだろう。それを達成するのは決定的だろう。とはいえ、確定ではない。誰もが疑わないことこそ、疑ってかかるのが孤独者の役割だと自負する。私以外が全員リバティアイランドに◎を打つんだから、私ひとり、◎を打たなくたっていい。そもそも、私の◎には影響力も価値もそもそもない。すみっこにひっそり暮らす孤独者として、小さな小さな抵抗をしよう。

リバティアイランドは桜花賞とオークスのどちらの競馬を展開するのか。桜花賞は休み明けだから進んでいかなかったのか。距離が延びたからオークスは好位の後ろで競馬できたのか。その辺は慎重に考える。なにせ、京都内回り2000mの秋華賞は牝馬三冠でもっともややこしく、繊細だ。少しかけ違いがあれば、結果は大きく変わっていく。

後ろからそれを目指すなら、振り返らず前をひたすら走り抜ける無欲さを買おう。北海道でパワーと器用さを磨いた先行型フェステスバントは1枠1番なので、行くよりほかにない。馬体重410キロ台の小さな馬だからこそ、さっさと先手をとって、圧をかけられないように進めたいはず。逆境に強いキズナとミルリーフ、ニジンスキーの底力を宿した血は覚悟を決めたときに大きな力を授ける。

普通の競馬で安全策に出るなら、今度は競馬の流れを一切、無視して直線一本に賭ける馬だ。秋華賞は昔からそんな馬たちがよく穴を開ける。直線が短いから追い込みが効かないわけではない。一発逆転は無茶な流れを作り出したときに巡ってくる。その筆頭がエミューだ。不良馬場のフラワーCで見せたストレッチの効いた低い姿勢の追い込みは、極限まで弓を引き絞らないと引き出せない。東京のようなコースはこの手のストレッチランナーには不向きで、内回りでこそ再現できる。こちらも420キロと小柄だからこそ、わざわざ窮屈になる馬群に入ることはない。
前にせよ、後ろにせよ、孤独を受け入れ、それを自覚し、強みに転化できるものにこそ、逆転の機はやってくる。みんなと同じことをしていては勝てない。勝負とは孤独を受け入れる覚悟を試す場だ。

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