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水面に揺れるスタートライン 第6話

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 休日、僕は結婚の準備をするために、実家に帰ることにした。少し気が重い。最後に母と会ったのはいつだっただろうか。僕と母の関係は悪いわけではない。ただお互いの歯車が錆び付いていて、うまく回らずに動きが止まっている、そんな状況だ。実家を出てから、僕は特別な用がない限り、実家には帰らなかった。母と距離をとるようになったのはいつからだろう。思い出せないほど、昔の話だ。

 母はバイオリニストで、僕が子どもの頃は、コンサートや弟子のレッスンで忙しかった。最近はもうほとんど自分がコンサートに出ることはなく、弟子の育成に力を入れているらしいが、僕は母に興味がない。母が僕に興味がないからだ。僕のことより、弟子のことの方が詳しいだろう。彼女はバイオリンと、その関連で頭がいっぱいなのだ。
 僕の母との記憶は、幼少期で止まっている。父と別れた頃の母は、幼い僕の目から見ても荒れていた。そして八つ当たりをするかのように僕にバイオリンを練習させた。僕もそれなりに努力したつもりだ。しかし、僕は僕が奏でるバイオリンの雑音に耐えられなくて、苦痛で仕方なかった。そんな僕に母は気づいていたのだろう。ある日母からバイオリンを取り上げられた。やめたくて仕方なかったのに、やっと母と楽器から解放されたその時、見捨てられたのだと知って泣いた。唯一バイオリンで繋がっていた母との糸が切れた瞬間だった。
 それ以来、ほとんど会話をすることがなくなった。もともと、親子ではなく、師弟だったのかもしれない。バイオリンがなければ、ただの同居人だった。

 玄関の前に立つ。インターホンを鳴らした。僕は、「お客さん」だ。しばらくして開いたドアの向こうから出てきた母の顔は、僕の記憶よりだいぶ老けていた。
 「久しぶりね」「うん」それだけで会話は途切れた。
 結婚することを母に伝えなければならない。どうせ反対もしないだろう。反対されるような仲でもないのだ。
 僕が口を開こうとするのと同時に、母が口を開いた。
「ほら、玲くん覚えてる?」
 覚えていないが、多分弟子の一人だろう。
「彼、先月のコンクールで優秀賞とったの」
 久しぶりに会って、話す会話が知らない弟子の話。彼女にとっては、僕の結婚の話よりずっと大事なのだろう。僕は自分の話を切り出せないでいた。彼女の話が「玲くん」の話から、別の弟子の話に移ったので、僕は荷物をまとめに自分の部屋に行くことにした。

 僕の部屋は、僕が出て行った時のままだった。放って置かれた過去の空間が息を潜めて僕を眺めているようで、主を歓迎している雰囲気は感じられなかった。少し埃っぽく、窓を開けた。冷たく僕を迎えた部屋に、追い打ちをかけるように冷たい風が吹き込む。若干自虐気味になった僕の心に、その風は悪いものではなかった。必要なものと不要なもの。整理しようと思ったのに、ほとんど要らないものに見えた。なんとなく机の引き出しを開けた。乱雑に詰め込まれた引き出しの中身は、どれもゴミのようなものだった。部屋を見回す。新しい生活に持っていきたいと思えるものは、見つからなかった。

 僕が階段を下りていくと、母が紅茶を用意して待っていた。
「何か話があるんでしょう?」
 僕が急に帰ると連絡したので、「特別な用事」があると考えるのは自然だ。長居をするつもりはなかったが、一応椅子に腰を下ろす。
「結婚することにした」
 母に目を合わせることができないまま、単刀直入にそう言った。
「そう……。おめでとう」
 彼女にとって、他人事だった。特に嬉しそうでもなければ、心配もしていない様子だ。
「式の日取りはちゃんと相談してね。次のコンクールの予定もあるし……」
 弟子のコンクールの方が優先なら、そっちに行ってくれて構わない。僕は紅茶に口をつけず、席を立った。
「ねえ、覚えてる?」
 また弟子の話だろうか。
「あなたが子どもの頃、バイオリンを教えていたでしょ? 今でも思い出すの。自分の夢を押し付けて、ダメな母親だったわね」
 僕の脳裏に、厳しく練習を強いられた記憶が蘇る。
「あなたが『もう嫌だ』『やめたい』って泣くまで、気づかなかった」
「嘘だ。僕はそんなこと言ってない」
 僕の上擦った声は意外と大きく響いた。僕のきつい口調に、母は戸惑っている。
「言ったじゃない。あなたがあまり泣くから、だからバイオリンをやめさせたのよ」
 そんなはずはない。僕はやめたくて仕方がなかったけれど、母に認められたくて努力していたのだ。母が僕に見切りをつけて……。
「あの時は私も涙が止まらなかった。とっくに終わった自分の夢をあなたに押し付けて、私はひとりで楽になろうとしてたのね」
 母が泣いていた? そんな記憶はない。僕は困惑しながら自分の記憶を探る。母は過去を眺めるかのように、遠くを見つめ、続けた。
「あなたにはあなたの夢を見つけてもらわなければって、母親として当然のことにあの時やっと気づいたの。でも遅かったみたい。……あなたが私から離れていったのはそれからね」
 母は椅子を引いて、僕の隣に立つ。母の姿は、僕の記憶よりだいぶ小さかった。
「とても才能があったのに、残念だったわ」
 彼女は悲しそうに微笑んでから、続けた。
「幸せになって」
 呆然と立ち尽くす僕の背中を優しく押す。僕はなんと言えばいいのかわからず、黙って頷いた。
「あ、そうだ」
 母は何かすごいことを思いついたように嬉しそうな声をあげた。
「車、持って行っていいわよ」
「え?」
「私からの結婚祝い」

 母はミニクーパーと軽自動車の二台、車を持っていた。特に車が必要な生活ではなかったが、結衣ゆいを喜ばせることができるかもしれない。僕は軽自動車でいいと言ったけれど、軽自動車の方が使うからと、ミニクーパーをもらうことになった。いい車だけれど、維持費もそれなりにかかるから頑張りなさいよ、と母は笑った。マンションの駐車場がまだ空いていたはずだ。契約したらまた車を取りに来ると約束して、実家を後にした。

 僕の記憶と母の記憶には相違があった。どちらが正しいのだろう。見捨てられたのではなく、離れていったのは僕なのか。見捨てられて僕が泣いたのではなく、僕が泣いて「やめたい」と訴えたのか。僕だけでなく、母も泣いていた? わからない。僕の幼少期の唯一鮮明だった記憶が、ぼやけてしまった。

 過去の事象は変わらないのに、記憶は時を追うごとに変化していく。どれだけ確かなものなのだろう。でも知らぬうちに誰もが、記憶を頼って生きている。記憶の上に人との繋がりがあり、自分の行動を決定するのも何かしらの記憶によるものだ。記憶から消えたら、なかったことにさえなりかねない。そんな重要なものなのに、他者と共有することはとても難しい。それは自分の中に、自分の手によって構築されたものだからだ。全く以って、主観的な創造物と言えないだろうか。こんな不確かな記憶というものに、僕たちは縋っている。
 母と僕の記憶。それがどんな記憶だろうと、そこに僕は生きていて、感じていて、でもそれは全て僕の中の記憶だ。同じ瞬間を生きていても、僕には僕の記憶が、彼女には彼女の記憶があるのだ。幼い僕は、何を見ていたのだろう。母と向き合い直すことが、今の僕にできるだろうか。


 帰宅と同時に、はしゃいだ声が僕を迎えた。
奏斗かなとさんだ! 奏斗さんが帰ってきたぞ!」
 パタパタと音を立てて、浮き立った様子で駆け寄ってくる結衣。
「ただいま」
「奏斗さん、こっち向いて! きゃー! 奏斗さん!」
「え、なに? これは」
 彼女は「追っかけくんごっこ」だと答えた。幼い子どものようにはしゃいでいる。僕は時々、彼女のテンションについていけなくなる。躁状態になっているのだろう。彼女の精神状態は安定しないので、こんなに元気でも心配になる。決まってこの後、その反動で落ち込むからだ。
 部屋の中に入りたいのに、僕の前で駆け回る結衣に邪魔されて、玄関から進めない。幼稚な遊びに夢中になる彼女の姿は、今まで何度も見てきた。これは、僕の前でしか見せない結衣の顔だ。他人から見たらどう思われるかわからないが、僕にはこんな彼女も可愛らしかった。
 とはいえ、その遊びに付き合うつもりはなかった。僕は、身も心も大人の男だ。まとわりつく彼女をうまくかわしながら、廊下を進もうとする。
「奏斗さん! サインしてください!」
「ええ?」
 いつの間に用意したのか、彼女はマジックペンを握っていて、僕に差し出した。戸惑いながら受け取ったものの、どうすればいいかわからない。彼女は着ていたTシャツにサインをしろとせがむ。結衣のお気に入りのTシャツだ。
「ほんとに?」
 当然、僕は躊躇った。服にマジックペンでサインをするなんて、気が引けた。けれど、結衣は「はやくはやく」と急かす。僕は仕方なく、少し悩んでから、襟の部分に小さく「v」と書いた。
「……V? Vサイン?」
「うん」
 納得しないのか、結衣は両手でTシャツの胸元を引っ張って、小さな「v」をまじまじと見つめている。
「よく見てごらん」
 僕は少し得意げに言った。
「ハートに見えない?」
 彼女は弾むような声をあげた。
「ハートのVサイン!」
 彼女は満足した様子で、「v」のサインを指で撫でながら、部屋に戻っていく。我ながら咄嗟とっさによく思いついたサインだ。僕は心の中で自画自賛しながら、結衣の背中を見つめた。近いうちに鬱状態になるのだろうな……という不安はあったが、今、彼女が楽しめているならそれでいい。これも思い出のひとつになるだろう。




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