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乾杯~大学の親友,結婚するの巻~

2023年6月25日,大学の親友の結婚式に出た.「大学の友人」枠は何人かいたが,そのうち知り合いは同じ学類を出た1人のみ.他の人たちから「◯◯くんとはどんな繋がり?」と聞かれるも,正直どう説明したらいいのか分からなかった.

最初の出会いは大学1年生.

棚を組み立てようと工具を「又借り」した相手が彼であった.共通の友達から「それ使ったら持ち主に返しといて」と言われ,伝えられた通りの部屋番号を訪ねると,寝起きを暴かれた目付きの悪い大男が半分だけドアを開けて顔を出してきた.彼は何も言わず工具を受け取って乱暴にドアを閉めてしまった.

まともに会話するようになったのはそれから2年ほど経った頃.お得意の(?)「盗み聞き」から始まる.当時は,学類の生徒会的な活動である「クラス代表」に精を出していた頃.戦う相手を勘違いしていることに気付かず,「大学に学生の声を伝える」という拳を振り上げることの無力感に薄々気付き始めていた頃.
「俺,2年続けて代表やろうと思う.学生の活動って仕組みに気付いた頃に引き継がなあかんやろ.1年で代表が代わるから,俺たちは同じ過ちを繰り返してしまうねん.」
半屋外のラウンジで,彼は誰かに熱弁していた.今と変わらず,屈託のない無邪気さと,疑いのない力強さで.勝手ながら,「同じことを考えているやつがいるなんて」と思った.

なんとかして接点を持って話せる関係になろうと,居合わせそうなイベントには積極的に参加した.久しぶりにアルバムを漁ったら,「3年生交流会」(学類関係なく,3年生の学生が交流しようという趣旨の会)に出たときのものが出てきた.みんなの中心で満面の笑みを浮かべる彼と,後列左端で引きつった笑顔を浮かべる僕がいた.その場で,とある案件への協力を依頼した.

「3年生交流会」での一コマ.

学生時代の僕は大学の同窓会の事務所でバイトをしていた.当時は,大学院に進学して,大学の卒業生の研究をしたいという気持ちが芽生え始めていた頃だった.勝手に「師匠」のように思っていた職員さんから,「学生目線の同窓会への思いを集約したレポートを作りたい.学生を何人か集めてくれ」と頼まれ,この手の依頼に慣れていそうな学生を探していた.彼に声をかけたのは,全代会(大学全体の生徒会的な団体)のリーダーであった彼が「この手の依頼に慣れていそう」だったからだけではない.彼に,自分や自分のやっていることに興味を持ってもらうためであった.

レポート作成は,同窓会にやってほしいことや思うことを自由にブレインストーミングし,話題に上がったことを付箋に書き,それをKJ法でまとめていく方式で行った.正直その場で彼とどういう話をしたのかあまり覚えていないのだけど,彼が解散間際,付箋に「今度飯でも行こう.」と書いて渡してきたことだけははっきりと覚えている.

春日3丁目の居酒屋で初めてサシで飲んだ.

「火星に行きたい」「この間友達と話してるうちに新しいビジネスモデルを思いついた」.屈託のない無邪気な笑顔とともに彼の口から出てくる言葉は,正直考えたこともないくらいスケールが大きく,到底僕にとって現実味のない話であった.「同じことを考えているやつ」なんて,全然思い上がりだった.

それからというもの,何かとお互いのやることに巻き込み,巻き込まれの関係が続くようになった.大学4年生で立ち上げたサークル(2年後には閉じることになるのだけれど)のメンバーになってもらったこともあった.彼は,僕の自信の無さと,往生際の悪さを見透かしていたのか,決して僕の考えを否定することは無かった.ただ,「おもろい」かそうではないかは,はっきりと言う男だった.

僕が誘った都内の大学OBOGとの交流イベントの帰り道,「こんど中小企業の経営者たちと飲むけど来ない?」というスーパー怪しい勧誘を受けた.スーパー怪しいのだけれど,「同窓会についてのブレインストーミング」や「大学OBOGとの交流イベント」といった,現代の学生が一言聞けば何かしらへの勧誘を警戒する色々なものに巻き込んでいる手前,断るわけにもいかなかった.恐る恐る顔を出してみた,つくば駅前のチェーン居酒屋で開かれた飲み会の席で,主催者の恰幅の良いおっさんから「楽しみにしてたよ.◯◯くんが『おもろい奴がいる』ってしきりに言うもんだからさ」と話しかけられた.彼が僕のどこを見てそう思ったのかは正直今でも分からないが,彼の中で「おもろい」奴になっているんだ,という事実だけが,なんだか誇らしかった.この飲み会が発端となって出会う人たちのおかげで,3年後にラジオ番組を始めることになる.

4年生の時,彼は1年間大学を休学した.

最初は「休学する」とだけ高らかに宣言し,ヒッチハイクやアジア歴訪など,会うたびに違うことを言っていた.最終的に目的地は「アフリカ」になった.周りに全否定されながらも,彼は屈託のない無邪気さと,疑いのない力強さで,あっという間に酔狂なパトロンを見つけ,資金を調達して日本を飛び出していった.出国前の飲み会で,せめてもの手向けとして,1通の短い手紙を送った.「どれだけ期待してもそれを上回ってくるだろうから,僕は君に何も期待しません.」うろ覚えだけど確かこんなようなことを書いたと思う.

海外での彼の活動を知るのはネット上が主だった.彼は一時期,Twitterでインフルエンサー的なことに精を出していた.「お世話になった人に何も報告せず,それが本当にやりたいことだったのか?」と,僕は安全圏から唾を吐きかけていた.数年後,その言葉が自分の身に降り掛かってくることも知らず.

当時,卒論の調査でカナダに行っていた僕と,タンザニアのザンジバル島にいる彼は,日本にいる仲間も含めてよくビデオ通話をした.帰路につく彼が,トランジットのヘルシンキで1日を過ごすというので,何気なく調べてみたヘルシンキ大学の同窓会オフィスの職員とSkype通話をすることになり,現地までパシらせたこともあった.大学スウェットにハットを被った明らかに場違いな男が画面に写った瞬間は確実に走馬灯で再生されるだろう.

テロ予告や感染症といった窮地を命からがら乗り越え,タンザニアのザンジバル島からシベリア鉄道で大陸を渡り,船で日本に帰国した彼を,僕は実家に招いた.大学院に進学したら車を借りられることになっていたので,長時間運転のお供を頼むためだった.彼の流石の人たらし力あってか,実家はたいそうな盛り上がりだった.祖母は,「お前たちが色んな友達連れてきて正直覚えられないけど,◯◯くんだけははっきり覚えてる.」と今でも言っている.猫の毛だらけの僕の実家で,彼の肌にひどいアレルギーの症状が出てしまったことだけは,今でも申し訳ないと思っている.

「アフリカで死にかけ,シベリア鉄道に乗って帰ってきた大学生」の話はどこに行っても大ウケだった.一方,「大学院で同窓会の研究をしている学生」の話はだんだんウケが悪くなっていった.彼は都内で就活をした後,つくばのベンチャー企業の営業マンになった.今をときめくスタートアップの若きエースと,明確な将来像を描けず燻る大学院生との距離は広がるばかりであった.

ある日,彼に彼女ができた.

優しく,ひまわりのように明るい笑顔が素敵な方だった.家に押しかけてしょうもない愚痴を聞いてもらう時間は無くなったが,よく3人で遊ぶ機会を作ってもらい,一緒にキャッチボールをしたり,行きつけのバーに飲みに行ったりした.僕も対抗して女性を連れて行ったことがあったが,その人とは直ぐに連絡を取らなくなってしまった.

僕の悪い癖は,自分の思い込みで人との間に勝手に壁を作ってしまうことである.いつしか,彼にも些細なことで声をかけるのを躊躇するようになってしまい,「元から対等な関係じゃなかった」と勝手に自信を無くし,あまりコミュニケーションを取らなくなった.

ある日,彼が結婚することになった.

昼間大学にいると,「お使いを頼みたい」とメッセージが入った.何かと思って聞いてみると,プロポーズの薔薇を予約していたが,人身事故で帰りの新幹線が遅れ,閉店時間までに取りに帰ることができないから代わりに取りに行ってくれ,とのことだった.そんな大事なものを他人に頼むなよと思ったけど,自分がそんな大事なものを頼まれる人であるという事実が,改めて,誇らしかった.店内に僕が入ったとき,気を遣って応援の視線を送ってくる店員さんに,「僕じゃないですよ」と視線を返すのが,とても恥ずかしかった.夜の23時頃家に来た彼に,「頑張れよ」と一言告げて花束を渡した.

僕が彼との間に勝手に壁を作ったことに対して,周りの人間はひどく腹を立てていた.それは失礼な行為であると,言われて初めて気がついた.「和解」(?)を期して開かれた小規模な飲み会で,勝手な思い込みの内実を打ち明けて,弱さを認めること,プライドを捨てることを学んだ.最後に,彼は「うちの式場はサプライズありやから」と信じられないことを言い出した.そこから,なかなか気苦労の多い半年間を過ごすことになった.

例の飲み会の初期メンバーを集めたサプライズの内容が「ビデオメッセージ」に決まり,ようやく安堵していた頃,行きつけのバーで彼と奥様と3人で結婚祝いの会を開いた.僕は,「バーのマスターにスポンサーをお願いするのを手伝ってほしい」と,彼に久しぶりの頼みごとをした.それに対し,彼と奥様は,「結婚式で牧師をやってほしい」と予想の斜め上を行く返礼品を付きつけてきた.正直,友人代表スピーチくらいは覚悟していたが,やっぱり,この人には何も期待するべきではないと改めて思った.気苦労がまた一つ増えたが,「親友の結婚式で牧師をする男」の話はどこに行ってもウケるようになった.

牧師の内容は元バックパッカーの彼にちなみ,「機長の場内アナウンス」にすることにした.直前にAmazonで安っぽい機長風の帽子を注文した.届いたものに付いていたバッジは明らかに「艦長」で,被った自分の姿はどことなく「車掌」だった.Amazonのトップページには少しHなコスプレ衣装がいくつも表示されるようになった.結婚式の前日に,誰にも相談せずに原稿を書き,何度か練習した.誰にも相談しなかったのは,人の言うことを真に受けすぎて,中途半端な形のものを生んでしまうことが恐かったことと,自分に託された使命を誰にも邪魔されたくなかったからである.これが「親友の結婚式で牧師をする男」に許される最大のわがままだろう.本音を言えば,誰かに自分が考えているものより面白いアイデアを出されたら癪だからであった.

当日のリハーサルで初めて新郎・新婦の前に姿を見せ,大声を挙げて笑う二人を見て,それだけでひと仕事終えたような気分になってしまった.1年半ラジオを続けてきている成果なのか,本番も申し分なかった.ただ,司会のお姉さんのやや大げさな紹介だけがすごく恥ずかしかった.

披露宴が始まってからは,サプライズ映像が無事流れるまでは気が休まらない.今はつくばに住んでいないメンバーのメッセージもなんとかかき集め,学会発表を目前に控える中でなんとか編集し,今どきのPCに付いていないDVDプレイヤーを買い足してディスクに焼き,式場に試写をしに行くも大きさが合わず(事前に説明されていたにも関わらず)作り直しになり,やっとの思いで当日に漕ぎ着けたのだ.ここで流れなかったら,「星の下」どころの騒ぎではない.時間になり,映像は流れた.素晴らしい出来とリアクションだった.誤算だったのは,直前の「新郎・新婦からのプレゼント企画」でまさかのつくばワインを当ててしまったことである.他人の結婚式でこうも何回も人前に立つことも珍しいだろう.これだけは,一生に一度であってほしいと思う.

サプライズ映像の内容は,一昔前の「キャッチボールリレー」CMをもじったような形で,タスキにメッセージを書いて次の人に投げるというものである.編集は誰か上手な人にお願いしようと思っていたけど,結局時間が無かったので自力ですることにした.「やっぱり映像はどれだけ綺麗かより,どれだけグッと来るかですよね.」後輩にそう言われて安心した.

当然,僕もメッセージを書かなければならないのだけれど,メンバーのメッセージをせっせこ集めるのに必死で,何を書こうか落ち着いて考える暇もなかった.式の一週間前に,弟に書いてもらおうとタスキを実家に持っていく途中,タスキの入った鞄を中央西線の網棚に置き忘れるハプニングもあった(ちゃんと戻ってきた).結局,書いたのは前日の夜だった.

親友が結婚する時には,長渕剛の「乾杯」を歌って祝いたいという密かな野望があった.

今回はそういう雰囲気でも無かったので,せめてタスキのメッセージに歌詞にちなんだ言葉を入れることにした.往生際の悪さがここへ来ても発揮されていると思う.

友よ,「君に幸せあれ」.


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