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歴史探究-4・日朝修好条規

(1)  前回の江華島事件(雲揚号事件)による軍事的な圧力のもと、これから日朝修好条規(江華条約)が結ばれます。YouTubeは https://youtu.be/aiboVdAr12o

江華島事件のころの東アジアはどういう情勢であったでしょうか?
 日本の江戸時代は鎖国でありません。開国する前の日本や朝鮮はもともと閉鎖されいた訳ではありません。日本の周辺には、蝦夷(北海道)にアイヌ民族がいて、その先にロシア帝国があり、このロシアとは松前藩が交易しており、朝鮮には李氏朝鮮があり、釜山の倭館で日本と交際し、中国は清朝が支配しており、沖縄に琉球王朝がありました。
 つまり4つの窓口があり、長崎でオランダ・中国と、対馬の宗氏が仲介して朝鮮と、琉球で中国と、松前でアイヌやロシアとの交流があり、

(2)明治維新(1868年)とともに周辺国との関係が刷新されます
 これから、日本の周辺の住民・民族・国々をとりこんで日本のものにしようとします。明治維新で日本は変わったのですが、それだけで済まず、周辺世界に侵略し噛みついて餌食にして肥大化します。この大日本帝国は1945年に破滅に落ちるまで突きすすみます。
 イラストの狼は日本が狼に変身し、だんだん大きくなる姿です。

①1869年蝦夷を「北海道」と改称。
②1870年蝦夷(えぞ)に黒田清隆の視察→⑧へ
③1871年日清修好条規
④1871年宮古島島民遭難事件→⑦へ
⑤1872年琉球藩とす→⑪
⑥1874年明治7年)に屯田兵例則を定め、翌年 ⑥1875年蝦夷に屯田が開始された
⑦1874年台湾出兵→撤退
⑧1875年5月樺太・千島交換条約(サンクトペテルブルク条約)、アイヌは国籍選択へ
⑨1876年2月日朝修好条規
⑩1876年3月小笠原島の統治を日本が通告
⑪1879年琉球処分、沖縄県とす
⑫1895年下関条約で台湾を領有→台湾征服戦争(台湾民主国の占領)

(3)冊封体制
 東アジアの中心国は中国です。中国皇帝から各国の国王たちは家臣の立場でつきあう関係を持っていて、これを冊封体制といいます。冊封とは、世界の最高君主=天子=中国皇帝から周辺の君主たちは、国王の称号や印綬をもらい、皇帝の家臣の立場を認めてもらうことです。それにより国内に自分の地位の正当性を得ていました。中国皇帝にたいして朝鮮・琉球(沖縄)・越南(ベトナム)などが朝貢(ちょうこう)国となり、冊封されていない周辺国は人間以下の禽獣(きんじゅう=けだもの)の国・民族である、という差別的国際関係です。日本は室町幕府を別として、この関係からはずれていました。
 ただし、家臣の立場をとらせた、といっても皇帝が各国の内政・外交に干渉しないのが原則です。実にゆるい関係ですが、しかし、これが互いに抗争しないための平和な国際関係でもありました。
 また家臣国は朝貢国ともいい、朝貢とは皇帝との貿易のことで、あくまで皇帝の朝廷に品物を貢(みつ)いで、お返しの品物をいただくという儀礼のかたちをとったための表現です。
 1871年の日清修好条規は伊達宗城(だてむねなり、大蔵卿)と李鴻章(直隷総督)の間で調印しました。皇帝に対して三跪九叩頭の礼をせず、立礼で押し通したが、日本は「天皇陛下」の名を記さずに対立を避け、互いに領事裁判権と協定関税率を認め、対欧米軍事同盟を結びます。

(4) さて江華島事件の後に、朝鮮の宗主国・清朝と日本の会談が行われました。「宗主」とは東アジアの中心国である中国が周辺国にたいしてもつ盟主の地位のことで、外交権ともいえます。朝鮮の宗主国の中国にたいして、日本の立場を説明することから朝鮮との外交関係を結ぶことにしました。派遣されたのは若い外交官・森有礼(もりありのり)でした。清朝の外交トップは李鴻章(りこうしょう)でした。概略次のような対話をしました。

森有礼と李鴻章
1876(明治9)年1月24〜25日
(李)朝鮮は独立国ではあるが、その国王は清国皇帝の命によって立つ、つまり家臣としているゆえに清国に属してい属国だ。
(森)それは単に清国と朝鮮との関係に関することであって朝鮮の「独立」とは関係がないです。内政に関与せず外交も自主的にさせている、というのであれば、「属国」という表現は適格ではない。そういうあいまいな中国と周辺国の関係があるから台湾事件(台湾出兵)も、今回の朝鮮事件(江華島事件)も起こったのです。
(李)ちがう。朝鮮が砲船に発砲した事件は実は日本が自ら招いたことであり、砲船が朝鮮海岸付近、即ち公法上禁じている3カイリ以内に侵入し、さらには土地を占拠し人を殺し財を奪ったのに、今また使節を以て白黒をただそうとするとはどういうことか。
(森)朝鮮側はわが国の国旗を掲げた船に対して突然発砲しました。みだりにわが国の名誉を汚しわが国の砲身に発砲したのです。
 これに対して使節を派遣してこれらの暴行の理由を問責するのが当然なのは言うまでもありません。「公法は之を守るの国に用」いるべきであり、「朝鮮の如き公法の何たるを知らず、かえってこれを嫌がるの国に用いるべきではないでしょう。
(←森は日本が発砲して事を拡大したことを伏せて、1回目の朝鮮側の警告発砲だけをとりあげて責めている。ここでも朝鮮側の無知を責めているが、実は日本側が公法を犯していた)
(李)日本は隣の国を撹乱し機に乗じてこれを奪おうとするようだ。
(森)朝鮮がわが国の要望を満足する状況に至っていないという点については、閣下はわが国の要望を理解していないようです。
(李)そこまで言うか。わかった。日清修好条規のこともあり、朝鮮にたいし日本との友好関係を築いたほうが得策、ということは伝えておく。

(5) このように朝鮮を問責するため外交を始めますが、その前に日本の外交観が問題でした。明治元年(1868)12月14日に木戸孝允(きどたかよし)は「使節を朝鮮につかわし、彼の無礼を問い、彼もし不服のときは罪を嗚らしてその土を攻撃し、大に神州(日本)の威を伸長せんことを願ふ」
 と記していました(『木戸孝允日記』第一、p.159〜160)。まだ朝鮮がどんな反応をするかわからない時に、すでに侵略の意志を表していました。
 また同年に外務省から朝鮮に調査団を派遣しています。調査団の活動は朝鮮側から何の危害も受けることなく自由に行われました。調べた結果、団長の佐田白茅(さだはくぼう)は、「三十大隊からなる討伐軍を要請し、朝鮮全道に進軍して、必ず50日以内に朝鮮国王を捕虜にすべし」と唱えます。
 この後、朝鮮との国交交渉は5年間もつづけられましたが、進展のない交渉から、余計に朝鮮は「無礼」であると、武力威嚇が優先課題になります。

(6)
 日本側が迫るなか、朝鮮側の反応はどうだったでしょう?
 (a)衛正斥邪(えいせいせきじゃ)をとなえる人々です。
 これは朱子学・正学を守り、邪教(キリスト教)を排除するという姿勢です。朝鮮王朝第26代の王・高宗は(位1863〜1907)が10歳で即位したため10年間は父の大院君(テウォンダン)が摂政をしていました。鎖国攘夷策=衛正斥邪をとります。全国各地に「斥和碑」を建てて、攘夷(外国排除)の決意を示した。礼を以て来れば礼を以て応接するのが朝鮮の外交方針とし、軍事的な攻撃にたいしては反撃します。フランスとアメリカ艦隊の攻撃にあっているので、当然の対応です。
 大院君の衛正斥邪・斥和碑は攘夷派と同じですが、といって大院君は近代化に完全否定をしているわけでなく、開化派にも一定の理解ももっていました。

 (b)開化派・朴珪寿(パクキュス)
 日本が天皇を称するのは自称自尊であり、
他国にとっては無関係です。国や家に、隣のない国、隣のない家はありません。商売、漁業のために民は日々海上に出ています。漂流して日本に到ることも、毎年数十回を下りません。今、もし日本と永遠に絶交するようなことになれば、これら民の命はいずこに棄てるというのでしょうか。(『原点 朝鮮近代思想史 2攘夷と開化』p.72〜73「対日政策に関する意見」)

 (c)攘夷派・崔益絃(チェイクヒョン)
 斧を持って王宮の門前に伏し、自分の反対意見を受け入れないなら、わが首をはねよと迫った。「前日の倭は隣国であったが、今の倭は「寇賊」であり、その実は洋賊であります。彼らは、顔は人間にして心は獣であり、少しでも意に満たなければ人を殺し踏みにじることも、また憚るところがありません。(『原点 朝鮮近代思想史 2攘夷と開化』p.82「なぜ日本との条約に反対するか」)

(7)砲艦(威嚇)外交
 当時の対韓外交を担っていた征韓論者の佐田白茅の報告を受けた政府は、1876年、陸軍中将・黒田清隆が特命全権弁理大臣に、元老院議員・井上馨(かおる)が副全権弁理大使に任命します。
■錦絵の黒田と井上(右の人物が黒田公(黒田清隆弁理大臣)、その後ろが井上公(井上馨)とみられる)
 事件の年から明けて76年1月15日、日本艦隊は釜山に入港し、正午12時、日進・孟春・函館・嬌竜などの計6隻の軍艦が江華府に向って行くさい、各艦の巨砲が十発以上発砲演習をおこないつつ航行した。この日から朝鮮沿岸のひとびとが集まってこれを見ている姿が確認できる)(『黒田清隆使鮮日記』、国会図書館憲政資料室のマイクロフィルム)
 このように脅迫しつつ外交を迫るやり方が日本の外交の常道です。
 毎日のように轟々(ごうごう)と砲声をとどろかして朝鮮側に示威しつづけた。弱い者には狼のように襲い、礼節を重んずるものには乱暴に振る舞うにかぎることを『ペリー提督日本遠征記』を手本に策を練っていたのだろう。
 正午十二時、日進、孟春、函館、嬌竜ラ四艘ノ軍艦ハ江華ニ向カッテ発港スルニ臨ミ、各々巨砲十余発ヲ以ツテ海上演習ヲ為ス。是ノ日亦沿岸処々二彼ノ国人聚散陸続タルヲ見ル。(『黒田清隆使鮮日記』、国会図書館憲政資料室のマイクロフィルム)

 日朝間の修好談判は、1876年2月11日、江華府内の錬武台にて開始されました。2月20日までにかけて4回行われ、両国は、議衛兵・会談場所・八戸順叔問題・書契不受・雲揚号の発砲・旗・責任者処罰・代表権などをめぐって対立しました。
 すると黒田は「いま日本の各地には陸海軍が集結し、命令しだい貴国へ出兵する用意ができている」と恫喝(どうかつ)します。
 黒田の桐喝は、うそではなく、このとき軍兵を輸送する船舶も三菱合資会社から借り受けて、下関に集結させていました。すでに現地入りしている陸軍卿・山県有朋の命令一下、いつでも発進できる態勢にしていました。

 江華島では森山茂と朝鮮代表との間で、黒田、井上らの代表団の上陸についての予備交渉が行われていた。予備交渉というものの、「黒田、井上両全権大使と随員一行を護楯する任務で、草芝鎮に来ている水兵は凡そ三千名で内1500名は儀使兵だが、儀使兵は武器を携行して上陸するのが、我国の慣例である。このほかにまた後続の艦隊がいつでも来られるように準備を終え、待機している」などという脅しであった。

 対立が解消しないため、黒田全権は朝鮮側を非難する絶交書を手わたして江華府から軍艦を引き揚げます。これに屈した朝鮮側は、2月26日、日本側の要求をそのまま受け入れたので、27日に江華府の錬武台において、「日朝修好条規」が結ばれ、両国の全権によって調印されたのでした。
 このように軍事的な圧力で調印させるやり方は、これからも繰り返される日本式脅迫調印です。
 ■江華島西門内閲武堂におかれた大砲(李圭憲著『写真で知る 韓国の独立運動 上』図書刊行会)

  朝鮮は武力による脅迫の前に屈し、治外法権などの不平等な内容には全然触れずに、体面上、大日本帝国と同じように「大朝鮮」と「大」の字をつけただけで、1876年2月26日、不合理な内容を持つ「日朝修好条規」を締結しました。そこには国際条約と関税に対する朝鮮側の無知につけ込んだものが含まれていました。
 
■写真 条規と天皇
「日朝修好条規」についての朝鮮国王の批准書。“大朝鮮国主上"という肩書を使ってその下に捺印した。日露戦争後、韓国の国権を奪った諸条約はこういう形態の批准書がなければならなかった。右側は日本の天皇の批准書

(8) 今回の日朝修好条規の動画の問は

問 なぜ日朝修好条規で、「朝鮮は自主の邦(くに)にして日本国と平等の権を保有せり」という文章を書かせたのか?

 日朝修好条規「江華島条約」の内容
 条約第一款(かん、条と同意)と他の内容の矛盾を探してください。言いかえると、どういう主権の侵害をしているか考えてください。

①朝鮮国は自主の邦(国)であり、日本と平等の権利を保有する。
 原文 
 第一款(かん、条と同意)
 朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ嗣後両国和親ノ実を表セント欲スルニハ彼此互ニ同等ノ礼儀ヲ以テ相接待シ竃モ侵越猪嫌スル事アルヘカラス先ツ従前交情阻塞ノ患ヲ為セシ諸例規ヲ悉ク革除シ務メテ寛裕弘通ノ法ヲ開拡シ以テ双方トモ安寧ヲ永遠ニ期スへシ

②従来日本の公館があって、長年朝・日両国人民の通商地になっていた釜山の草梁以外に、2港を開き、日本人の往来通商を許可すべきこと。
③諸開港場において日本人は土地を賃借し、家屋を造営し、所在の朝鮮人民の家屋を賃借することができる。
④日本国の航海者は自由に朝鮮海岸を測量することができる。
⑤日朝両国人民は、各自任意に貿易すべきものであり、両国官吏はいささかもこれに干渉してはならず、制限をもうけたり、禁止してはならない。
⑥朝鮮国指定の開港場に在留する日本人が罪を犯した場合、それがたとえ朝鮮人民に関連する事件であっても、日本国官吏が審理する。
⑦1876年、1882年に「日朝修好条規附録」と「日朝通商章程」「日朝修好条規続約」が調印され、(a)元山・釜山・仁川の3港で日本人が自由に通商できる。(b)日本貨幣の自由使用。(c)朝鮮国の「銅貨(常平通宝また葉銭」)も使用・運搬できる。(d)今後朝鮮国の諸開港場から米穀および雑穀をも輸出入することができる。
 これらの諸条約によって日朝修好条規の不平等性は補完され、朝鮮の半植民地化が決定的となった。
 補足:半植民地化とは政治上、朝鮮政府は残っていても、経済的に完全に支配下におかれ植民地化される寸前にまで来ている、という意味。

矛盾の答は
① 答 
 これは、それまでの宗主国(外交権をもつ国)中国をブロックして朝鮮に介入させない、日本単独で介入できるようにする、という狙いがありました。狙いは、日本の侵略性・不平等性を隠す欺瞞的なものです。

②1880年には元山港が、1883年には仁川港が開かれた。
③これは日本人が開港場に根をはり、朝鮮侵略のための有力な拠点を作るためのものであった。

④これは日本人が朝鮮領海を思いのままに侵犯することができるようにしたもの。従って朝鮮の主権を侵害するものです。
⑤これは朝鮮政府が輸入品や輸出品に対していかなる制限も禁止できないようにしたもので、朝鮮の主権に対する侵害です。

⑥これは「治外法権」または「領事裁判権」と呼ばれるもので、朝鮮の主権を侵害することはいうまでもない。米国に押しつけられた屈辱を朝鮮にかぶせました。
⑦これにより貨幣の途絶・膨張を引き起し、金融・物価を左右できるようになりました。
とくに米穀の輸入を急増させた日本人商人によって農民が破綻していきます。
 
(9)結果
 秀吉の地獄が朝鮮に訪れます。
 Hideyoshi's Hell opens up!

 この動画の文字記録・出典はnote:歴史探究・日朝修好条規にあります。
 次回は「日本の侵略思想史」です。
 この江華島事件・日朝修好条規に表れている日本人の膨張傾向は顕著なものです。なぜ日本には江戸時代、いやそれ以前から大陸侵略の志向・思想があるのか、あからさまな志向・思想の事例をあげて考えてみます。

追記:この時期の対韓政策について百田尚樹は「即断即決で出されている。たとえ拙速ではあっても果断に対処していく決断力と実行力は見事である。しかもすべての政治家が近代国家というものを初めて運営しているにもかかわらずだ」(『日本国紀』297〜298)と素早さと決断力を褒め称えています。上で見たように江華島事件そのものも、この条規をめぐる会談の場合も、政府内会議・調査団派遣・外国人顧問(ボアソナード)との相談・朝鮮側使節(修信使)の歓迎会など時間をかけて、かつ狡猾に動いていて、百田の言うような「即断即決」は嘘です。1870年から「通商章程」締結の1882年にかけて12年かけて妥結したものです。

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