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アイヌの植民地化

これはYouTube → https://youtu.be/GzUstJdcs5g 
の史料・資料版です。

 アイヌはアイヌ語では人間、という意味です。なのでアイヌの植民地化、とは変な表現になります。しかしあえてアイヌとしたのは、たんに土地の植民地化だけでなく、その人格・生活のすべてに日本の支配が及んだことを表したいためです。アイヌの大地はアイヌ語では「アイヌモシリ」と言います。

(1)■この垂れ幕の偏見はどこですか?
 日本ハムのポスター


 2015年11月9日、日本ハムは北海道の新千歳空港ロビーに垂れ幕(縦5・5m、横2m)を掲げました。

 まるで明治政府がこれから「開拓」してやる、と「未開な土地の北海道」という150年前とおなじ 感覚で発表しています。アイヌから抗議を受けて撤去しています。
 日ハムの広報担当者は取材に「不適切な表現であったことを真業に受け止め、アイヌ民族の関係者におわびしたい」と語った。
 明治政府は1899年に「旧土人保護法」を制定して北海道を「保護」「救済」すべき対象としました。この法に中に「天皇の赤子であるにもかかわらず、このような悲境に陥っているのをは見るに忍びない。救済の方策を設け、窮乏をあわれみ、産業をおこし生活できるようにするのは、天皇の下に一視同仁(すべて平等に慈しむ)の知恵です。」と「窮乏」に陥らせた和人の罪業は無視しています。「開拓」は「植民地化」に等しい。

(2)黒田清隆とアイヌ

(図版は国立国会図書館・近代デジタルライブラリーより転載)

開拓使
北海道を支配する官庁のこと。1869(明治2)蝦夷(えぞ)地は北海道と改称し、国郡制の導
入。11ヶ国と86郡に分けました。戸籍法も制定してアイヌは平民に編入し、必要な際に「旧土人」と識別することにしました。アイヌが所有していた土地は、国家が一方的に併合します。
 開拓使(1869年〜82年)と北海道庁(1886年設立)の下で、北海道における植民地秩序の確立と強化がなされた。中央の利益のために、この地域の戦略的・経済的な潜在力を開発しようとして、明治政府は内地と全く異なる特殊な行政と経済機構を創設した。豊かな漁場に加えて、北海道の主要な資源は土地であった。集団的または私的な使用権のシステムによってアイヌに所有されていたこの土地は、国家により一方的に併合された。そして資源を剥奪されたアイヌは慢性的な貧困に追い込まれた。(リチャード・シドル著『アイヌ通史』岩波書店、p.15)

 明治天皇は次のような蝦夷地聞拓に関する諮問の「御下問書(天皇が家臣に尋ねた文書で、天皇の考えの表明でもある)」を出している。

 蝦夷地の義は皇国の北門、直(じか)に山丹満州に接し、経界(けいかい)粗定といへども北部に至ては中外雑屈致候処(ところ)、是迄官吏の土人を使役するに甚(はなはだ)苛酷を極め、外国人は頗(すこぶ)る愛恤(あいじゅつ)を施し候より、土人往々我邦人を怨離(えんり)し彼を尊信するに至る。一旦民苦を救ふを名とし土人を煽動する者之有(これある)時は、其禍(わざわい)忽(たちま)ち箱館松前へ延及するは必然にて、禍を未然に防ぐは方今(ほうこん)の要務に候間、
「箱館平定(へいてい)之上は速(すみやか)に開拓教導等の方法を施設し、人民繁殖之域となさしめらるべき」儀に付、利害得失各意見忌憚(きたん)無き申し出ずべく候事。
(『開拓使日誌』明治二年第一号、日本近代思想体系22『差別の諸相』岩波書店より)

ケプロンと黒田清隆
 ホーレス・ケプロン(Horace Capron)は、1871年、渡米した黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となった人物。開拓の教師であり、クリーク・デラウェアなどアメリカの先住民をテキサスからオクラホマに強制的に移住させた責任者です。一連のフロンティア(西部開拓=先住民追放)政策は、白人がインディアンたちを自分たちの西部進出を妨げる野蛮な障害物としか考えていなかった。「マニフェスト・デスティニィがスローガンでした。
 ケプロンは測量技師、地質学者、農学者といった人材、先住民から奪った土地の管理や鉄道、鉱山、農場建設のための人材、先住民の強制移住に携わった経験を持つ人材も連れていった。
 一部の人名は、合衆国農務省のアンチセル、測量・土木関係担当技師のバルチモア・オハイオ鉄道に勤務していたワーフィールド、書記兼医師のジョウジタウン医科大学解剖学助手・合衆国農務省図書館司書のエルドリッジ、地質・測量・鉱山のライマンや助手マンロー、農業・牧畜のボーマーやダン他地である。
 滞日3年10ヵ月、後の北海道の開拓・開発の重要な指針となった。天皇にも謁見し、1884年、天皇から勲二等旭日章が授与されている。「開拓」のモデルはアメリカの西部開拓だった。

(3) この絵にみられる偏見はどこですか?
左は夷酋列像(いしゅうれつぞう)f
蠣崎波響(かきざはきょう)作)と右はバードのスケッチです。どこが違いますか?

①三白眼:白眼が左右下にあり、恐ろしい感じ。
②蝦夷錦という中国・揚州で製産した高級織物で中国皇帝・官僚たちの礼服を着ている。豊かさ。
③着物というのは大体右前に着るように作ってあるのに、左前に着ている姿で着方(左衽/左班)を知らない未開な連中(えびす)に見えるようにした。

 クナシリ・メナシの蜂起(1789年)に対して松前藩は、松前藩に協力したアイヌの首長に鎮圧させました。褒美として藩主に御目見得させ、服従を確認します。藩の部下たる蠣崎波響はその際の首長の姿を描き、彼はその絵をただちに京都に持参して時の光格天皇に見せました。
 なぜこのような絵を描き、天皇に見せたのでしょうか?

 諸説あり、
(1)全員が毛むくじゃら、三白眼で描かれ、恐ろしげな異人たち、という印象を与え、わたしたちはこういう野蛮で凶暴なヤツラを服従させているのだ、と訴える(偏見の告発)。
(2)それでいて中国製の豪華な着物(蝦夷錦)、ロシア製の赤いブーツをはく交易富者でもあり、こいつらと交易する利益がある、とも。
(3)松前藩しかかれらを統治する能力はないから、幕府が介入するのは止めていただきたい、との政府への圧力をかけたかった。

(4)主な衝突の歴史
①878年 元慶の乱:夷俘(蝦夷)の反乱である。出羽国の夷俘が朝廷の苛政に対して蜂起して秋田城を襲った。
②1457年 コシャマインの戦い:和人に対するアイヌの武装蜂起 アイヌの男性が鍛冶屋に小刀を注文したところ、品質と価格が約束と違うと文句。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺したた抗争が拡大した。
③1648年 慶安元年以降、メナシクルとシュムクルの間で静内川の漁業権をめぐって武力衝突が繰り返され、度々松前藩が仲裁。
④1669年 シャクシャインの戦い:松前藩への不満がでアイヌの一斉蜂起となった。近年松前藩の役人の仕置はシャクシャインの言葉「非道ニシテ貪リ多ク、秋共年ヲ重テ困窮」になり、このまま日本人をこの島におくと大変なことになるので、松前殿を始め皆殺しにして先祖の無念をはらしたいと訴えたといわれる。
⑤1789年 クナシリ・メナシの戦い 1789年(寛政元年)、クナシリもメナシも場所の名です。請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ(国後郡)のアイヌが、クナシリの族長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。

 和人とアイヌの対立原因は?
①不等価交換:アイヌとの交易が松前藩の独占となったため、交易値段が松前藩に掌握され、市場原理の働かない不等価交換が幅をきかしていて、松前藩はできるだけ安く買い叩き、その分本州との交易で大きな利益をあげようとした。交換比率だけにとどまらず、たとえば串貝が一束でも不足しているなら翌年は20束の弁償を迫られ、出せないとなると子供を質にまでとられた始末。
②アイヌの狩猟場に無断で侵入する:鷹の捕獲や砂金採り、川の漁場あらしを行なった。とくに秋味(鮭)漁業権のある川に大網をおろし奪っていった。
③和人の商業・企業に雇われても、給金は和人の4分の1ないし5分の1にすぎなかった。
④借金のかたに負債をかかえたアイヌの人身を拘束して山丹に連れて行き下人として使役したり、また家に乱暴に押し入り鍋類などを奪い取ることも常態であった。
⑤夫婦である者を無理やり引き裂き妾にする、働きのよくない者がいる場合には、アイヌを皆〆粕(しめかす)にして殺すと脅したり、子供をおんぶしたメノコ(婦人)を大釜のなかに引き込み煮殺したり。反抗すると容赦のない処刑が待っていた。刀を首にあてられたり、積み荷や衣服も略奪にあった。
⑥アイヌの数家族の単位はコタンといったが、これは大きいものは小国家といっていいものがあったが、反乱のたびに破壊された。
⑦強制移住:千島樺太交換条約(1875)が日露間で結ばれると、アイヌの自主的な意向を尊重する文面になっていたが、樺太組は北海道・石狩、北千島組は南千島の色丹島へ、どちらも強制的に移住させられた。
⑧月代(さかやき)
武士の頭と同じに、前額から頭の中央にかけて髪を丸くそり落とした風習を強制。

(6)小林の「純粋なアイヌはいない」の漫画
小林よしのり()は、アイヌの存在を「純粋」なものに限定し、アイヌは存在しい、
と主張しています()

 「純粋なアイヌはもういない」という言説は、アイヌの存在を「純粋」なものへと限定し、「純粋」ではないアイヌをアイヌではないと否認すること、「混血アイヌ」を和人でもなくアイヌでもないと判断して「アイヌはもはや存在しない」とと意味づける否定の論理につながっていく。
 小林はどのページでも「混血」のイメージを作画して、「純粋」アイヌの存在を否定し、アイヌ問題や北海道の入植植民地状況を不都合な表れとして黙殺しようとする。また、近代の言説において、アイヌの「滅亡」が社会進化論的な「優勝劣敗」「適者(種)生存」 「自然淘汰」の法則にのっとっているのだ、と言いたげです。

 じゃ、あなたは純粋日本人ですか?
 それを証明できますか?
 証明できるとしたら、あなたの先祖の何代目までたどれますか?
 たどればたどるほど日本人から遠ざかることを知っていますか?
 日本人の由来は主に7コースたどれますが、その中に自分の先祖がどのコースから入ってきたのか証明できすか?

 2万年前の東アジアの地形です。


陸続きで日本に渡ってこれました。
③〜⑥の移動の頃は船で来ています。

①ブリヤート人の到来
現在分かっている縄文人29人のルーツはタイ、韓国、台湾のDNAが確かめられており、そのうち17人がシベリアのブリヤート人と一致します。つまりブリヤート人が基盤になって日本人が形成されました。(かれらのことは2300年前のマリタ遺跡で石器が確かめられています)。

②ワジャク人の到来
現在のジャワ島周辺一帯はスンダランドと呼ばれる大きい島があり、そこが水没していく過程でジャワ系の人々(ワジャク人)が木舟で黒潮に乗って日本にやってきます。丸ノミ石斧(丸木舟をつくる石器)は沖縄(港川遺跡)・鹿児島・南九州にあ
ります。

①②の北南の二つの流れが縄文人を形成し、
③第二の波として、2300年前から面長の顔
付きの弥生人が到来します

④〜⑥第三の大きい波として前10世紀ころから中国大陸・朝鮮半島から東アジア人(主に中国人)が大量に押しよせます。縄文人+弥生人にプラス第3波です。この第3波は全日本人の6割を占めるくらいで、これらの人々が混血して現在の本土日本人が形成されます。

 小林よしのりは自画像を欧化しています。

 天皇顔の大改造……ジャガイモを西洋梨に変えたような大改造です。よくできてますね。(裏の声)本物を知っているひとはほとんどいないのですから。このニセ顔を「神」として崇めさせましょう! 有り難がりますよ。

 明治天皇も欧化して、これを神として崇めさせています。イタリア人画家キョソーネが描いたもので、それを写真にとり、額に入れて全国の学校に配布させ、奉安殿に教育勅語とともに「御真影(ごしんえい)」として飾って拝ませました。“直視すると罰が当たって目が潰れる”という理由で、生徒が見ることを禁じる場合もあった。余計に本物かどうかが分かりません。

(7)日本人はどこから来たのか?
 東京大学・人類遺伝学の徳永勝士。
ヒト白血球抗原(HLA)は免疫反応を掌る蛋白質。分子構造の違いから1万を超えるタイプに分かれる。アイヌも他民族と区別される独自のHLAを持っています。

 現代の本土日本人は「B52-DR2」というタイプ。これをもつひとは西に多い。中国・韓国・西日本に多い。別のタイプ「B46-DR9」は南中国から来ているひとびと。さらに「むしろB54-DR4」これらは弥生人と推定。何回にも渡って渡ってきた、と。
論文 https://www.jstage.jst.go.jp/article/mhc/21/2/21_87/_pdf

 アイヌ民族に関しては,おもなHLAハプロタイプに他の3集団と共通するものがないことに加え,最も古いタイプを持つとともに比較的最近のものも持つことから,縄文時代人の特徴を受け継ぐとともに,弥生時代以降にも本土日本人とは異なる集団との遺伝的交流があったと考えられる。
論文「HLA 遺伝子群の多型データの活用」p.90 https://www.jstage.jst.go.jp/article/mhc/21/2/21_87/_pdf
 科学者の証明によって「アイヌは先住民ではない」という主張は崩されました。

(8)13世紀にやってきた?
 YouTube(世界史解体新書)
 →https://www.youtube.com/watch?v=JTJx6AqqfL8
 13世紀にやってきた民族ですよ。13世紀にやってきた民族を先住民とするってことは……モンゴルが先住民になっちゃう。

 この間違いはどこ?

 13世紀に移動したのなら、どこを原住地として出発し、なにが移動原因なのか、何系の民族かも言及しないで、いきなり13世紀に「やってきた」と。これは実証性のない誤説です。「先住民ではない」ということを言わんためにでっちあげた説です。13世紀はアイヌ文化が形成された時期として史家には知られた説で、この世紀になって「やってきた」のではありません。
 それに「モンゴルが先住民になっちゃう」というのも珍説。どうしようもなく不勉強です。

 元々アイヌは、本州中部から北は樺太・カムチャッカ半島南端に住み、次第に北海道とその周辺に追いやられていきました。
 13世紀以前のアイヌのことに関しては、
①縄文時代からあると見られているアイヌ語地名は、北海道の90%以上の地名の元であること。山形・秋田の県境以北、および宮城県北部以北にも濃厚に残存しています。
②8世紀、征夷大将軍となった坂上田村麻呂によるアイヌ「征伐」があった。
③878年、元慶の乱(がんぎょうのらん)は、平安時代に起きた夷俘(蝦夷「えぞ」はアイヌ呼称の一つ)の反乱。
④9世紀初め、遣唐使が蝦夷を唐の皇帝のもとに連れて行った。
⑤12世紀初め、蝦夷370人の捕虜が近江に移住させられ、かれらの名前が滋賀県信楽(しがらき)町玉桂寺の阿弥陀如来立像の胎内に記されてる。

 13世紀にアイヌ文化が形成されますが、それまでに積み重なっている文化として、旧石器時代・縄文時代・続縄文時代、北部からオホーツク文化とトビニタイ文化が加味され、擦文文化の時代があり、とうとうアイヌ文化ができあがります。

(9)茂木の「むしろ人間扱いしてきた」
 茂木誠(駿台予備学校世界史講師)のYouTube
 →https://www.youtube.com/watch?v=HVJyi9ca5BU
 「国連で大体、変な話は大体国連から来るんですけども、2007年に国連総会がありまして、先住民族の権利に関する国連宣言というのを出すんですね、世界中のね。」
 茂木誠「そもそも先住民族ではないです。日本は本当に同じ人間扱いしてきたんですよ。多少悪徳商人いただろうけれども、それをね、国連さんがですね、みんな一緒にしてですね、先住民を守れ、そこに乗るってのは、一体この日本政府の見識は一体何なんですか。無知にもほどがある。」

このどこが無知ですか?

 茂木誠「国立アイヌ民族博物館を擁するウポポイは民族共生空間だから、アイヌの方たちと本土、日本人で、彼らは和人と言っていますが、一緒に頑張ろうというふうな展示だったら、それはそれで価値があると思うんですよね。はい。ところがね、そうじゃないんですよね。……悪いことを教えるのではなくて、悪いことも良いことも闇も光も両方あって歴史でしょう。……これはちょっと建物の趣旨と違ってますね。」

反論
 ウポポイ館長の挨拶の初めにこう書いてあります。
 国立アイヌ民族博物館を擁するウポポイ(民族共生象徴空間)は、その基本構想にも書かれていますように、「我が国の貴重な文化」であるアイヌ文化を復興・発展させるとともに、先住民族の尊厳を尊重し、「差別のない多様で豊かな文化を持つ活力ある社会」を築いていくという重要な意義を持つ国家プロジェクトです。
 茂木氏は「闇も光も」と言っていますが、迫害され、差別されつづけたひとびとに対して、同等に扱え、と要求するのはマジョリティ(多数派)の勝手な言い分です。人口数・軍事力の面で、あまりに非対称的な和人とアイヌを、同等に扱って「共生」でしようか? 「共生」は少数派から仕方なく言い出すものです。「黒人の歴史館」で、白人の善も対等に展示せよ、というのは白人の横暴というほかない。差別の深刻さを無効化する言説です。アイヌの反乱に言及しても、なぜそれが起きたかの原因を説明していません。明治以来の差別主義です。
 著書でもテレビでもヘイトスピーチを繰り返す講師を雇っている駿台のガバナンスが問われる時が来るでしょう。

 茂木誠「変な話は大体国連から来る
 日本は国連に加盟しているにもかかわらず、国連の勧告を無視しつづける問題児です。宿題を課せられても、やらないで済まそうとする落第生です。国連勧告には「法的拘束力はない」と言って、「民主主義国」を名乗る日本は長いこと、アイヌ先住権を認めるよう国連は勧告してきましたが、拒否しつづけ、やっと2008年に認めました。先住権は人権の一つであり、人権は国際水準で判断するのが基本です。日本が「国際社会において、名誉ある地位を占め」ることなど遠い話です。人権後進国であることは、他国と比較で明らかになるばかりです。居心地が悪いのであれば、なぜ国連にいつまでも居座っているのでしょうか? 追放されるのを待っている? それとも自ら脱退?
 最近例としては
https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100045760.pdf
自由権規約委員会、「慰安婦」問題について3度目の勧告

(10)小林「風呂に入らぬ」
 ■写真 ネイマール・メッシュ・少女像など
 刺青(タトゥー)をし、風呂に入らず、シャワーだけで済ます不潔な欧米人は近代化(=日本化)すべきですか?

文字を持たないのはアイヌ民族だけですか?
イレズミ(タトゥー)はアイヌだけの風習ですか?
風呂に入らないのはアイヌだけですか?
土地所有観念をもたないのはアイヌだけですか?
「時代」で誤魔化してはいけません。

 風呂に入らず、シャワーだけで済ます不潔な西欧人のやつらに日本の風習を学習させるべきですか?
 日本的にすることが近代化ですか?
 日本化は近代化ですか?
 
 開拓使設置50周年を記念して1918年に北海道庁が編纂・出版した『北海道史』は、和人が明治以来、アイヌに代わって北海道を開拓してきた理由を次のように説明している。
 アイヌは大多数は旧慣そのほかについては、未だ猶かつ野蛮蒙昧の域を脱するに至らなかった……そもそも開拓なる事業は、一定の文化段階に達した民族において始めて所期し得るのであって、蝦夷の如き、未だ野蛮時代を脱しない民族の手によりて、北海道の開拓を望むのは無理であることは当然であるが、北海道の付近にあって蝦夷と接触する民族の内で、その任に耐え得る文化を有するものは和人の外にない。『アイヌ通史』(44)

未開社会の「野蛮人」も教導し守らなければならない
 「土人」の生まれつきの「劣等性」によるとされた。「優勝劣敗」と「適者生存」の概念が科学的真理の地位を勝ち取っていた以上、大部分の人々にとってアイヌが―つの「劣等人種」として「生存競争」に敗北したというのが納得のいく説明であった。

(11)土人は蔑視表現ではない
YouTube(世界史解体新書)
土人って単純に「その土地の人」って意味ですから
←本当?

 1903年に大阪市天王寺公園で「学術人類館」がオープンし、アイヌ、台湾の生蕃、琉球、朝鮮、支那人、インド人などを「土人」として生身の人間を展示した。ここには蔑視観があります(ウィキペディア「人類館事件)。 

 人類館の「土人」とは、1903年に大阪市天王寺公園かあるあたりで開催された第5只凹内国勧
業博覧会で、民間パピリオンの「学術人類館」に風俗とともに生身で「展示」された人たちを指す。開設趣意昔には「内地に最近の異種人即ち北海道アイヌ、台湾の生蕃、琉球、朝鮮、支那、印度、爪吐、等の七種の土人」と紹介。このうち支那(清国)は巾前の抗議で実施されず、朝鮮と坑球(沖縄)も途中で撤去された。当時の「琉球新報』(1903年4 月7H 付)は「圃胞に対する侮辱」との社説を掲げ、学術人類館と名前は立派だが実際は見せ物的陳列にすぎないとして中止を求めた。
→1903年に大阪市天王寺公園で「学術人類館」がオープンし、アイヌ、台湾の生蕃、琉球、朝鮮、支那人、インド人などを「土人」として生身の人間を展示した。ここには蔑視観があります。

 (ウィキペディア)人類館事件
北海道アイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、瓜哇一名、バルガリー一名、都合二十一名の男女が各其国の住所に摸したる一定の区画内に団欒しつゝ日常に起居動作を見すにあり。亦場内別に舞台如きものを設け其処にて替はる〳〵自国の歌舞音曲を演奏せしむる由にて観客入場の口は表にありて出口は裏にあり。通券は普通十銭、特等三十銭にして特等には土人等の写真及び別席にて薄茶を呈すとの事

 1881年の内国勧業博覧会で展示した……この「人類館」は坪井正五郎か主任となって企画されたもので、1889年のパリ万博以来、万国博覧会において定番の展示物となっていた「土人村」を手掛かりにしてつくられた。大衆教育のために、「世界人種地図」ならびにその「人種」の習慣を見せようと坪井は考えたが、陳列予定であった中国人や朝鮮人、沖縄人は強く異議を唱えた。……だが、アイヌが「未開」な状態にあるということを疑う人は誰もいなかった。(『アイヌ通史』p.134)
 動物園と同じく「人間動物園」のつもりだった。

 当時の代表的な言論人、明治天皇のヘイトスピーカー福沢諭吉は土人を以下のように説明しています。

 (西部開拓の戦闘を説明する中で)土人とは本来のアメリカ人種なり。コロンブスこの国を発見して後、ヨーロッパ諸邦の人ここに移住するにおよんで終始土人と和せず、どうもすれば戦闘を起すといえども、従来この土人は風俗野蛮、ただ強勇なるのみにて文学技術を知らず、もとよりヨーロッパ人に敵することあたはず。

 ここには明らかに先住民インディアンを蔑視しています。

さらに福沢諭吉は、
 明治のヘイトスビーカー福沢諭吉は「北海道の土人〔=アイヌ先住民〕の子」はいくら苦労して教えても「慶応義塾上等の教員」(福沢自身のことであろう)にはなれないと記していたが(全集8巻 p.58)とも言っています。
原文→北海道の土人の子を養て之に文を學ばしめ、時を費し財を捐てて辛苦敦導するも、其成業の後に至り我慶應義塾上等の数員たる可らざるや明なり。

(12)同化と抗議
 ■小林の漫画「同化は悪いことではない」

 同化とは、征服者が被征服者の生活スタイル・歴史物語(皇民化)・言語・慣習・姓名などを否定し、征服者のそれを強制して変えてしまうことです。簡単にいえば日本人化です。同化しない者は差別・排除の対象とします。

 あなたは他者に同化されたいですか?

 ①アイヌ詩人違星北斗
 同化に抗して次のように抗議しています。

 ──私は寂しく思います
 私たちはアイヌとして幼い時からどんなに、多くの人達から侮蔑されてきたでせう。
  私たちは弱い方でした。それがため堪えられぬ侮辱も余儀なく受けねばなりませんでした。その時私達はもっと強かったら、誰が黙々として彼らの侮蔑の中に甘んじていたでせう?憎い彼らを本当に心いくまでいじめつけてやったのに……。
  私たちはこうした自分の過去の出来事を追憶して、思わずこぶしを握った事が何回あったことでせう。
  けれども、私たちは正直でした。
  ほんとうに、真剣だったのです。
  今日は聞くに堪えられぬほどの侮辱を受けても、次の日の私たちは、本当に彼らを信じていました。そして真面目に彼らの愛を仰いでいたのです。
  「ウタリー」よ!何故に私達は弱いんでせう。昨日彼らは私たちになんとして侮辱を与えたか。そして私たちは、その侮辱の言葉を聞いた時どんなきもちであったか?思ってみよ、あの侮辱の言葉を思ってみよ。お前はきっと忘れる事は出来ないでせう。であったら、お前は何故に彼らを信じるのか?何故に彼らに復讐しないのか?
  私の心は、その時かう叫びました。
  そして、そして私は、あの恐ろしい復讐の企てに燃えていくのです。私たちは今日まで、どんなにかその罪の恐ろしさにおびえつつも、彼らに対する復讐を行ったことでせう
 ──弱きが故に受くる苦しみ、悲しみ
 ──私たちは幾度か彼らを呪ったことでせう。
  けれども私たちは正直でした。
  私たちは、自分の心持のあまりにも荒んで行くのを、いつも寂しく思うのです。そして堪えらとなってとめどなくあふれ出るのです(68)。

私たちはこうした自分の過去の出来事を追憶して、思わずこぶしを握った事が何回
あったことでせう。 
 思ってみよ、あの侮辱の言葉を思ってみよ。
お前はきっと忘れる事は出来ないでせう。
であったら、お前は何故に彼らを信じるの
か?何故に彼らに復讐しないのか?
 ──弱きが故に受くる苦しみ、悲しみ
 ──私たちは幾度か彼らを呪ったことで
   せう

 ②松浦武四郎は江戸時代には、交易における和人のアイヌに対する不当で非人道的な行為を告発して『近世蝦夷人物誌』を記すが幕府により公刊が禁止された。また1869年に開拓判官を任じられ、5月に開拓使御用掛を命じられた。しかし「蝦夷地から松前藩を転封し、妖商(=悪徳商人のこと)の請負を廃止し、蝦夷地を諸侯へ分割するという三カ条」を提言したが、松前藩の転封は実現せず、翌明治3年3月に御用掛を辞任した。

 ③金田一京助は『アイヌ神謡集』の著者・知里幸恵に「アイヌは、侮辱をひたすら我慢している。しかしユーカラは、祖先が長い間口伝えに伝えてきた叙事詩で、民族の歴史であると同時に大切な文学です。アイヌ民族は文字を持たない。文字ではなく音で叙事詩の姿をそのまま伝えている例は、世界にユーカラの他にない。今我々が書きつけないと、あとでは見ることも知ることもできない。だから私は全財産を費やしても惜しいとは思わない」

 ④人類学者の梅悼忠夫は、1960年に「北海道独立論」発表した。梅悼は、日本の他の地域とは異なり、北海道は「土地そのものに関した独特の思想を……はぐくんできた」のであり、「日本思想一般ではおおいつくせない」「北海道思想」なるものがあると評価した。梅悼は、北海道が近代日本政府による開拓政策、さらに戦後に進行する開発政策をつうじて一貫して植民地状態におかれてきたととらえ、この状況を脱する可能性を北海道の政治的独立に見いだしたのだった。
 注(5) 梅悼忠夫「北海道独立論」、『梅枠忠夫著作集』第7巻(中央公論社)p.134

(13)無主の地?
■小林よしのりの「旧土人保護法」の説明文
 この説明文が隠していることは何ですか?

漁労・狩猟に生きてきたアイヌ民族は、旧土人保護法で一戸あたり五町歩(約五ヘクタール)が「給与」された。
 小林の旧土人保護法の説明が隠していることは?

 1876年開拓使乙第9号で、河川支流でのサケマス漁を全面的に禁止した。採ると密漁となる。さらに森林内での活動も禁止され、鹿をとれば密猟、薪をとれば盗伐とされた。そこへ和人移民が洪水のように流れこみ、すさまじい乱開発が始まり、アイヌ民族は従来の生活が出来ないようになった。

 「旧土人保護法」の前提はアイヌには土地所有観念がなく、征服者は「無主」の土地とみなしことです。勿論、それまでアイヌが使ってきた土地はアイヌのもの、そこにある森も川も彼等のものであり、「無主」と決めつけるのは近代的な法観念をもち、それを支える軍事力・権力があったためです。アイヌに対して土地の借用書を渡してもおらず、買いとったという売買契約書もありません。開拓使が勝手に奪ったのであり、アイヌ側は意見を求められたこともありません。まさに植民地化そのものでした。これは日本がこれから周辺を植民地化していく際にも応用されるやり方です。(『思想』岩波書店、2022年12月号、平野克弥「主権と無主地」)

 中国の外交観として中国文化を「華」とし、周辺民族・国は「夷」(詳しくは東夷・北狄・西戎・南蛮)と呼びました。これに習って日本は自らを小中華と誇り、中国に見習って周辺民・国を蔑視しました。それがアイヌを蝦夷・蝦夷地・蝦夷島と蔑視して呼ぶこになります。
 この中国的な蔑視観に西欧啓蒙思想の文明・未開という二分する思考が重なり、文明=華、未開=夷、という表現が明治から使われるようになります。

 この蔑視観をよく表明したのが福沢諭吉で、

 (い)文明開化とは、都会を開き市町(いちまち)を立て、住居の所を定め安樂の家におり、あらゆる物事に順序をととのえ、心を労し身を役し、礼儀を重んじ義を尊ぶものをいう。
 (ろ)野蛮とは、住居を定めず、水草を追って所を移し、あるいは牛羊を飼い、あるいは鳥獣(とりけもの)を捕て生活するものたちを言う。
 (ろ)の社会は、第一を渾沌という。野蛮の内にも最も下等(げとう)の民族で、烏獣の仲間といっても外れてはいない。アフリカの内地、ギニア・オーストリラリアなどの土人が代表的だ。はてしもなく広い野原に徘徊し猟漁(かりすなどり)を仕事にしている。(全集2巻、p.663)

 農業・都市生活=文明=優
 狩猟・遊牧=野蛮=劣

 狩猟・遊牧の先住民に対する蔑視観には、この二分法ががっちり浸透していて、この二分法に無自覚なひとがいる。
 
 福沢諭吉は事例として、を挙げている。
 内地の人民は三度の食事する際、どんな人も、お膳とお椀と箸とを備えて、北地の土人(アイヌのこと)には往々これなきものあり。されば人間世界、わずかに箸・膳の有無にても文明の高低を見るにことができる(全集巻5、p.284)。

 福沢諭吉は欧米を旅行している。箸のない世界を知らないはずはないのに。アイヌはスプーン・フォークを使っており、箸に近いものも作っている。福沢は無知だった。海外を知らない日本人向け発言? 現代のX(旧ツイッター)のように偽情報の拡散者だった。

(14)映画『シサム』


 この映画(2024年9月公開)はシャクシャインの戦いがあった17世紀の物語。松前藩の武士が蝦夷に商売に行くも、同行した兄がアイヌに殺され、弟(主人公)がその仇を討つつもりが負傷してアイヌに助けられ、次第にアイヌにたいする見方が変化していく様子を描いている。不利な交換の強制や砂金盗りと鮭採りで川を荒らす和人は傍若無人だ。主人公の孝二郎は、これらは知られていない不正とおもい、現代の新聞記者か歴史家のように、これは知られるべきことだと、記録に残すことを決め、調査旅行に出かけた。
 これらは『日本庶民生活史料集成・巻四』に載っている。すでに説明した松浦武四郎の文章もその一部で、彼のスケッチとともにこの本に載っている。

(15)開拓と妓楼
 黒田清隆は東京・吉原にある中米楼という妓楼(赤線/女郎屋)の常連だった。1871年に北海道開拓使の長となり、性欲発散所は必須と考える彼は、妓楼建設と「公然売女」の免許下付を太政官に申請している。
■公文書
 1876年、日朝修好条規で釜山の開港となると、楼主(妓楼の主人)に朝鮮渡航を促し、馴染みの中米楼に進出させた。
 他の業者も負けじと進出する。長崎の楼主は大阪まで娼妓募集に奔走したという(『大阪朝日新聞」(1879年12月7日付)。
 1884年、甲申政変の後始末の天津条約締結を終え、黒田は帰途に上海へ立ち寄り、滞在ホテル(フランス・ホテル)で給仕の中国人ボーイを犯した。銀二元を与えもみ消そうとしたが、別の少年が一部始終を見ていて、国際問題すると訴えたため外交官(安藤太郎)は苦労させられた(禁酒の使徒 安藤太郎伝 ⑧ →https://kinshu.or.jp/topic-ando-tarou-den-01.html)。

 淫乱であるだけでなく、酒乱としても名高い。それが「男らしさ」と自認していた怪獣です。周辺の男たちは黒田を礼賛しています。西郷隆盛は「頼もしき人物」、高杉晋作は「豪快な男」と。帰国した1888年、伊藤の後をうけて第2代内閣総理大臣となった。射精怪獣が内閣総理大臣になれる日本。

(16)アイヌ植民地化からの結論
(1)弱い相手を探して襲撃するのが日本軍の習性。これはアイヌ植民地化で典型的に表れ、これから周辺国への侵略でも繰り返される。
(2)女性を犯す施設をつくることは日本軍に不可欠となる。開拓使長官・黒田清隆がその先駆。
(3)日本を神の国、もっとも文明的な国として征服した国々を同化していく、つまり被征服国の民俗性・言語・姓名・資源・国土・信仰を奪うことに躊躇がない。

 次回は「琉球の植民地化」です。

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