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歴史探究-5・日本の侵略思想史

 これはYouTube(https://youtu.be/Ee8GffE9Q7c)と連動している記事です。これまで2回の動画(江華島事件・日朝修好条規)では日本の政治家・外交官・兵士たちがきわめて好戦的な言動をしてきたことが分かりました。なぜ彼等はそのような考えを持っているのか不思議でした。その由来、つまり日本人の侵略思想はどこから生まれているのかという疑問から、この動画・記事はできています。

(1)神功皇后(じんぐうこうごう)伝説
 わたしの住んでいる地域に、先祖は新羅から来たと公言するおばあさんがいて、高句麗(こうくり)・百済(ひゃくさい/くだら)・新羅(しんら/しらぎ)の亡命者が移住してきたが離ればなれに集落をつくり、近くに住みながら今もいがみ合っている、と話してくれました。

いずれ新羅が統一しますが、この三国が抗争していた4世紀に (じんぐうこうごう)が三国に遠征して、三国とも服従/服属させた、という伝説があります。「抗争」しているのに、日本からきた女性が戦闘なしに三韓征伐をしたという話し自体があり得ないことです。

 『日本書紀』によれば、大魚が船を運び、たちまち新羅に到達。新羅の国境にまで及ぶと、驚いた新羅王は、これは東の神国日本の聖王・天皇が遣わしたものに違いないと、白旗をあげて降伏し、以後は日本の朝貢国となり、毎年貢納することを約束した。 
 臨月の皇后が、もう産まれそうな子の出産を遅らせてでも、戦闘なしに三韓を征伐したという話です。  
 まだ産まれる前に赤子を皇位継承者と勝手に決めてしまい、この勇ましい女帝は『魏志倭人伝』にあらわれる卑弥呼と同一人物と、卑弥呼の生涯とは約1世紀の差があるにもかかわらず無理やり女帝に仕立て上げた作り話です。
 夫の仲哀(ちゅうあい)天皇は容姿端正、身長一丈(3メートル)とあり、死因が不明ですが、その場に立ち会っていたのは,神功皇后と建内宿禰(たけしうちのすくね)のみで、殺しを命じたのは皇后以外に考えられない、という状況でした。この恐ろしい女帝の話がなぜ永いこと、史実と信じ続けられてきたのか?

三韓征伐の目的は略奪です。『日本書紀』に「皇后曰(いわく)「初承神教、將授金銀之國。(「初(はじめ)に神の教(おし)へを承(うけたまわ)り、将(まさに)金(くがね)銀(しろかね)之国を授(さづ)けたまはむとす。)」とあり、「財宝国」を求めることにありました。『日本書紀』には「金・銀・彩色(さいしき)、綾織(あやおり)、羅織絹(らしゃおりきぬ)」と略奪品がなんども書いてあります。海に出て隣国から財宝を盗んでくる、という日本の天皇家の家業といっていい歴史がここに始まります。「家業 familybusiness」とは言い過ぎ、とおもわれる方は、グーグルの地図で確かめることができます。

 日本でも、植民地にした朝鮮半島でも『尋常小学国史』の中に神功皇后伝説を、さも史実であるかのように教えていました(p.15〜19)。

 「」である天皇の物語が歴史の前半を占める歴史教科書(国史!)の目的は、
 「敬神の思想は、我国に太古より行われた国家思想の一表現であることを理解させ、国民たるものは、誰人(たれびと)も敬神の思想感情を持ち、報本反始(ほうほんはんし/もとにむくいはじめにかえる──天地や祖先などの恩に報いる)、尽忠報国(じんちゅうほうこく──君主や国家に忠義・忠誠を尽くす)の心境に生くべきことを痛感せしめるようとした」でした。
──これは教科書編纂趣意書に意図が書いてあります(朝鮮総督府編『普通学校修身書全編趣意書』1934年 p.82)。これ自体は修身(道徳)科目の意図ですが、国語でも地理・歴史でも同趣旨のことが書いてあります。

 こうしたデタラメな物語がなぜ作られたのか? 一つの説は、当時の朝鮮半島・中国から亡命してきた渡来人・難民たちが、倭人の協力者とともに、保護してくたれ日本の朝廷・政府におもねり/追従(ついしょう)する目的で、朝鮮半島の国々はもともと日本に服従していた国々である、起源は神功皇后だと捏造(ねつぞう)した、ということです。このデタラメが受け継がれた歴史は以下のとおりです。

徳川家康(1543〜1616)
徳川家康は秀吉が送った朝鮮遠征軍を撤退させたのですが、帰国を命じるとともに、和議を早急に行え、和議の条件として、人質として朝鮮の王子を連行してくるか、貢物を提出させることを取りきめよ、と指示しています(1598年)。
 また慶長15年12月(1610年)、本多正純が明に送った書状には、「朝鮮入貢」と書いて徳川家康の印を押しています。もちろん朝鮮が入貢していないのに事実に反した書状にしています。

歌舞伎・浄瑠璃・祇園祭り
 1715年に大坂の八重桐座で顔見世興行のひとつとして「神功皇后三韓退治蘆分船(あしわけぶね)」が上演されています。
 1719年、浄瑠璃本、「神功皇后三韓責」があります。神功皇后の「出征」の動機、排外主義、神国の誇示という点で『日本書紀』の内容を踏襲しています。
 祇園祭りの船鉾には神功皇后が乗っています。
(「神功皇后伝説と朝鮮観」塚本明 『史林』79巻6号1996年11月)

新井白石(1671〜1725)
白石は朝鮮通信使と交わした筆談があり、こう語っています。(「江関筆談」”)。『殊号事略下』で、
むかしむかし三韓の国々は日本の西に位置する属国だったのであり、三国の君主は皆日本に臣属していたのだ。今の朝鮮国王が三国とも合わせて全部を支配する君主になったとしても、朝鮮の君主と日本の君主とを対等な関係に置くのは、上下転倒とも言うべきだ。
 ここにも神功皇后の三韓征伐が生きてます

山鹿素行(やまがそこう、1622〜1685)
林羅山の門下で江戸の儒学者。
高麗・百済・新羅はみな日本に朝貢してきた国である。崇神(すうじん)・垂仁(すいにん)天皇の代に絶えず朝貢し、その子弟を人質にして送ってきている。……(朝鮮は)豊臣家の朝鮮征伐のように征服しやすい弱国である。(『中朝事実』「礼儀章」1678年)
 原文・高麗・百済・新羅の来朝するも、亦好を修し隣を善くするにあらずやと、愚謂へらく、新羅の王子来朝し、任那来貢すること、既に崇神・垂仁帝の朝にあり。その後、船の柁(かじ)を乾きずして毎歳朝貢を絶たず。初めて国海に官家を置き、海表の藩扉と為す。これにより歴代子弟を以て質と為し、常に朝貢す。否なれば乃ち征伐して以て不庭を徴す。然らばこれ海外の諸藩は皆中国(日本:筆者註)の属国なり、ただ外朝以て信を通ずべきのみ、諸藩は隣と称するに足らず。
 豊臣家の朝鮮征伐をや。四海広いといえども本朝に比すべき水土あらず。事に高麗は天神より住吉天皇に賜ふ処の国なり、是れ征しやすいと朝鮮を非常に蔑視していて、秀吉の朝鮮出兵等を挙げ日本に比べる国ではないとともに征伐しやすい国である。(『山鹿素行全集』12巻、329〜330)
 秀吉は「征伐」に失敗しているのになぜこのような発言をするのか?

安藤昌益(1703〜1762)
 秋田出身の医師・思想家。
 儒教を信ずるは信仰心がないためだ。日本に謙(へりくだ)るは正義感の薄いためだ。学問研究をしていながら、仏巧(仏教の巧みさ)にだまされ、儒教をとうとび、皆自己に十分備わっている自然真を知らずして、いたずらに服従する弱国なり」((渡辺大濤『統道真伝』)」)と。朝鮮を蔑視していました。

林子平(1738〜1793)
 江戸の経世論家。
神武天皇が初めて日本の統一をなしとげて、神功皇后が三韓を征服せしめ、さらに太閤秀吉の朝鮮を征討して今の世迄も日本に服従せしめたことなど、皆武徳の輝ける成果である。(『海国兵談』)山本館編『林子平全集』第1巻, 生活社, 1943年,p.349。
 伝説も「討伐」もまったく疑っていない。

中井竹山(1730〜1804)
 大阪・懐徳堂の儒学者。
「神功の遠征以来、朝鮮は服従・朝貢してきていて、わが属国であることはずっとつづいていた。
 秀吉が遠征して征服しておれば、ずっと朝貢のままであったとおもわれる」と。『草茅危言』「朝鮮ノ事」(1788年──『日本経済叢書巻一六』、p.366〜370)

本多利明(1744〜1821)
 江戸の数学者、経世家。
経済的自立の基盤として海洋を利用し、蝦夷・樺太・カムチャッカを領有し、東南アジア地域をも含めたアジアの地に日本の発展の基盤を求めるべきである。(「経世秘策」)
 今の支那は国号を大清といい、南西はトンキン、コーチシナ、チャンパーなどのベトナムにいたり、東は朝鮮にいたりて皆その支配下にある。日本だけがどこにも屈せず、小国といえども神武の垂訓によって武道を失わず、故に今にいたるまて侵略されたことがない。朝鮮が中国の属国になっているのは、朝鮮が日本よりも劣った国だからである。イギリスを摸範とし、カムチッカを日本の中心にすえるのもいい。(西域物語)(『日本経済叢書 巻一二』p.218〜219)

佐藤信淵(のぶひろ、1769〜1850)
 秋田の医師で経済・農業・兵学の思想家。
 日本に最初に従属すべき地域は中国であり、まずその手始めに、支那国の満州より取り易きはなし。支那はまず満州より取れば朝鮮は自然に後で取れる。山海関まで押し込めば支那の衰微がはじまる。(『宇内混同秘策』うだいこんどうひさく)

吉田松陰(1830~59)
 長州藩士、思想家、教育者。
 急いで軍備を整え、艦計を持ち、砲計も加えたら、直ぐにぜひとも北海道を開拓して諸侯を封建し、隙に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流して内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉っていた昔の盛時のようにし、北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、少しずつ進取の勢いを示すべきだ。その後、住民を愛し、徳の高い人を養い、防衛に気を配り、しっかりとつまり善良に国を維持すると宣言するべきだ。
(『幽囚録』1854──奈良本辰也『吉田松陰著作選』講談社学術文庫 p.158))

橋本左内(1834〜59)
 福井藩の医師・思想家。
 近隣アジア諸国への侵略が、緊要第一に大事なことであり、近くの小国=朝鮮を併合すること、そのために日露同盟論が必要でありうる。ロシアの援助のもとに近国朝鮮などを侵略し、イギリスと対決し、制せられる前に制して、弱を強に転じよう。(村田氏寿宛書簡1857──『橋本景岳全集』上巻 p.553〜554)

平野国臣(ひらのくにおみ 1828〜64)
 福岡藩士の攘夷派。
今日より遠征を決断し、奮発勉強して必勝をものにせよ。今日はまだ攘夷が実現してない状況の下で、遠征などとは大胆に過ぎるかもしれないけれども、出陣・外征すれば、いざ戦争は戦争なのだ。砲艦をつくったりするの多少、労費はかかるかも知れないが、戦果をあげたら万々歳だ。後々まで神国の武威は海外に輝き、天皇の血統を中興し、永く万国を支配しよう。(「神武必勝論」国立国会図書館・デジタルアーカイブhttps://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/5372;jsessionid=F03F6E042DF48B1A56C9A8F655AC2C57)

山田方谷(やまだほうこく 1805〜1877)
 岡山の儒家・陽明学者。
清国はアヘン戦争大乱の結果、大半は太平天国に奪われ、昨年秋にいたり北京は英仏のために陥落し、清君主は満洲に逃亡したと聞いております。中国はいったん無主の地になったので、取りやすい場になった。……チャンスです。わが国の威武を使って、征服するチャンスです。左右中軍三手に分かれ、左軍は南海より台湾を攻めとり、右軍は北海より朝鮮を攻めとり、中軍は東来辺へ渡海、山東より攻め入るのがよい。」(田保橋潔『近代日鮮関係の研究』上巻、 朝鮮総督府中枢院, 1941年より)

徳富蘇峰(1863〜1957)
 熊本の郷士、歴史家、評論家。
 我が300年前の祖先は……八幡の旗を押し立てて、すべての支那人をして、肝を冷やさせたる海賊は勿論。ルソン、ジャワ、台湾、ビルマ、インドに膨張したる幾千万の人民は、いかにしてこれらの地域に行ったのか。これ皆かれらが個人的、任意的、随時的活動によって行ったのだ……ああ日本は、300年前の祖先を学ばざるをえない。歴史はくり返す、日本もまた祖先の行動をくり返さざるを得ない。(『大日本膨張論』1887──『明治文學全集 34 徳富蘇峰集』筑摩書房)

山片蝠桃(やまがたはんとう、1748〜1821)
 大阪の商家の番頭で、一庶民ながら学者でもあった。蘭学を学び、地動説を信奉し、歴史に超越的・神秘的・非合理的なものの存在を許すまいと努力したひと。一条兼良(いちじょうかねよし)・山崎闇斎(やまざきあんさい)・白井宗因(しらいそういん)・多田義俊(ただよしとし)・賀茂真淵(かもの まぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)の主張を、妄説牽強(もうせつきんきょう)の解釈(根拠のない、こじつけの説)だと批判した。

 『日本書紀』に対して「疑わしきは疑い、議すべきは議す、すなわち天下の直道にして、我私にあらず、殊更にこの書みな古説を用い……後世の偽作なること明らかなり」「ああ神道を学びてその博学と見ゆるも、ここにいたりては、なぜにこのように愚かなるや」と非難した。
 また「日本へ文字が伝わったのは、応神天皇のころからなので、その後のことは事実明白である。それ以前のことは、 口授伝説だから真実を知ることはできない。文字があっても文献がなければ訛言(たわごと)だ」と断言した。

 しかし、こうした真っ当な声は小さいもので、山片蝠桃は稀有のひとです。

山方蟠桃


山片蝠桃については、苅部 直(かるべ ただし)の「日本思想史の名著を読む 「第9回 山片蟠桃『夢ノ代』」https://www.webchikuma.jp/articles/-/637
苅部 直『日本思想史の名著30』 (ちくま新書)
 『古事記』『日本書紀』によれば、初代天皇である神武天皇は、紀元前660年2月11日に即位し、127歳まで生きたことになっています。山片蝠桃によれば、文字のない時代(文字は志賀島の金印文字(57年)から)のものは皆でたらめです。日本という国自体が存在しないのに天皇という首だけが宙に浮いているかのような気味悪い「たわごと」です。神武は橿原神宮で即位したことになっていますが、この神宮も明治になって、ちっぽけな神社を大幅に拡大したもの(1890年)で、神武天皇陵も存在しなかったのに、これも明治になって造作したものです。ないものが在ることになってしまった。
→(https://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/23/133823#google_vignette)

 『天皇陵の真相』(三一書房)では、作家の住井すゑ(代表作『橋のない川』)と日本古代史研究家の吉田武彦の会話はこうです(抜粋)。

(神武天皇陵について)
古田 面白かったのは、紀元二千六百年の時に巨木を持って来てね全国から、植えたっていう……。
住井 そうそう、そうそう。
古田 はじめから、まあ大きいけれども新しい、ああいう大きな木が元々から生えている場所と違うじゃないですか、回りがね、全部ね。
住井 そうそう、そう。
古田 そういうずうっと原野の中にあればね、そりゃ元からと思いますけど、あんな所にあるの、もうあとから植えたに決まってると思うて、こっちは始めから見ておりましたがね。ところが、結構世の中には今おっしゃったように……。
住井 だまされる。
古田 感心する人もおるんですねえ。
住井 九割九分はだまされる

 です。
 なぜ日本ではでたらめな神話が歴史と信じられ、秀吉から昭和までの侵略を支える思想となったのか?

 
 ① 根拠となっている原典・原本を読まない。確かめない、追求しない。
 ② 日本人は上(政府・役人・専門家・教師・父・男性)の言うことは正しいはずと信じやすく、騙されやすい心象がある。言論の内容より、言うひとと聞く自分との立場を第一に考慮する。 
 ③ はて? さて? どうかな? 本当か? という疑問を出すことを「悪いこと」とおもっている。

 結果、馬鹿な説でもずっと信じられつづけることになりました。これまで見てきたように、多くの日本の指導的な思想家はペテン師です。

 今回の「日本の侵略思想史」の出典・原文は、note の「歴史探究・5日本の侵略思想史」にあります。
 次回はアイヌ(蝦夷)の植民地化です。

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