「基本的には」健康な人と、そうでない人と

17歳の頃の引きこもりから始まった僕のメンヘラ生活。とはいえ、実際の所はもっと早い段階からだろうけれど。
病を抱えた人の話は当事者自身なのでよく聞く機会がある。聞かせて貰う機会において、病的な所や病的な症状のことは聞いていて、それそのものは確かに少し深いところに嵌まり込んでいるなと思うことは当たり前ながらしばしばある。しかし、病気の表れ以外のことを話しているときは思考回路も、その思考の素材となる受け取った情報の理性的分析や情緒的感受などはとてもまっとうで有意な偏りを感じられない人が思いのほか多いというのが最近の驚きである。誤解を恐れず換言するなら今現在病気は抱えているかもしれないが、パーソナリティそのものは健康、ということである。
少なくとも僕の場合は診断書に書かれている病以外の、様々な病的要因を抱えていると思っている。主治医の言葉そのままでいくと「単純な鬱とか、そういうのではない」とのこと。では何かは未だにわからないし、聞けてもいないし、恐らく聞けることも無い(精神科は基本的に診断名は余り重要では無い)。その表れとして、「猜疑」が過度であることは良く言われているし、自分自身でも驚くほどに猜疑が深い。疑う気持ちは、ある程度は物事の本質に近づけてくれる。でも過ぎれば主観の沼に向かっていくだけである。特に人間関係においては弊害が大きく、ずいぶんと色々失った。
そういう経験を多々重ねているので自分自身の特性の一つとして猜疑の深さを自覚し修正はするが、自動思考(何かしらを受け取った時に最初に浮かぶ考え)の修正にはエネルギーが必要である。これは自分の感覚を信じてはならないということと同義である。とはいえ、この修正はある程度は習慣化出来ているので精神的エネルギーの観点からある程度経済的にはなっている。それより自動思考から通常の思考に猜疑のフェーズが移った時が厄介である。思考から客観的な事実と自分の中の病理的なところから来ている猜疑の要素を見極め分類することは毎回難しいしとても疲れる。諦めて猜疑を外に向けて発してしまうこともしばしばである。
僕の中の所謂不健康とされ、また障害として生活を阻害している要因の多くはこの猜疑に端を発してることが多いように思う。それだけ日々、本来であればもっと違う所に使えたであろうエネルギーを奪われていることを実感している。どうこの自分の猜疑、自分の性質と付き合えば良いのか未だにわからない。

人にはあまりに世間的なところから離れたことを話すのには自然な抵抗が働き、それなりに整えられたことを整えられた形で話す。でもその修正作業が施されていることを加味したとしても、その素直さが僕には羨ましいぐらいの話しが世には数多ある。
僕自身が自覚しているところでは、僕の話は余りに角が無さ過ぎるということである。もう少し端的に言うと個性が無い。人の率直な感想はいい意味で何かしらに偏っている。それは聞いた人に「ああ、こういう人なんだな」と思わせる程度の偏りのことである。ただ僕の場合は修正の度合いが強すぎて聞いている人には僕の話が感想や意見ではなく、解説や解釈のように聞こえることが多いのではと思っている。実際に「機械と話しているみたい」とか「生活感が無い」とかは言われたことがある。
勿論この理由は修正という言葉から連想するような内容的な部分への強い修正という以外の要因も大いにある。それは情緒的な部分である。角が取れると情緒的なところもそぎ落とされる。最初に話を聞いて貰ったカウンセラーにかなり早い段階で「極端に攻撃性が低い」と指摘された。小さい頃から薄氷を踏むような生活の仕方を強いられてきたことの結果であることはわかっている。しかし、それが当たり前で且つ僕の中でも家の中でも正しいことだったのでそのカウンセラーに「感情を出しなさい」と言われて「感情を出すのが嫌いです」と答えたことを覚えている。情緒的なことは悪であると教わってきた。それが根本にある。だから自分の言葉に対して違和感が長く無かった。

病的な状態というのはある程度長い時間ストレスフルな生活をしていたら誰でも陥る。それでも根本的な所を冒されていなかったら、その人本来の柔軟性や健康な頃に養った感覚から元の状態にかなり近しいところにまで回復する事が出来ると思う。しかし、元の状態そのものが健康から遠く隔たっていた場合には。
よく「生育歴」という言葉を心理学徒時代使ったし、今は発達という言葉に取って代わられた部分も多いかも知れないが、それでも生育歴というものの意義は大きく残っていると思う。人間の根本は育った環境に大きく依存するというのは多分間違っていないし、ある程度は成長過程で補っていく努力は本人に課せられているものであると思うけれど、でも抗えない部分までもを本人の努力不足とするのは誰も幸せにしない考え方であるように思う。
理解しよう、されようとする努力はとても大切であるが、他人に伝えきれないところも多分にあって、そういう部分の扱い方が関係性に於ける大きな要素の一つではないかと思う。これは病の有無とは全く関係無い一般論としても重んじられなければならないところではと思うが、しかし特に根本的に人の世と相容れにくい要素がある、少なくともその自覚がある僕のような者には一生ついてまわる厄介であると思っている。

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