2022年、最初の週が終わる

今日上司殿から新年になって張り切り切りすぎのような気がする。最大瞬間風速では無く、アベレージで考えるようにとのご指摘を受けた。意識していなかったが、軽躁状態だったかな、少し冷静になると思えた。

去年は基礎工事の年、今年は建築の年と思っていた。この意味は単純に取り組んでいた機械学習の勉強の基礎と少々の応用を去年のうちに駆け足で通り抜けたので、今年はより着実に、そしてより高いレベルに持って行きたいというものであった。

しかし、今年が実際に始まり生活している中で少し良い意味で変わってきた。欲が出てきたとでも言おうか。今年は自分をより高いところへ持って行きたいと思うようになった。もしかしたら軽躁状態がそうさせているのかもしれないが、しかし生産的な病理の使い方というのもある。

日々の生活というのはまさにその人そのものであり、生活を磨くことは己を磨くことと同じである。故に、少し生活を改善したい。よりよい生活というのはよりよく時間を使うことである。

そう思い、少し自分にとって大きめの楽しみを犠牲にすることにした。時間とお金を少々使う趣味でだった。思い入れのあるものであったが、長くしがみつきすぎたというのもある。完全に切ってしまったわけでは無いが、せいぜい週末に少しぐらいにして主要な趣味からは外すこととした。

趣味というのもその人をよく表す。自分をより豊かにするためにもう少し文化なことに趣味の時間を使いたいと思ったというのもある。そのために趣味としてもう少し文字に触れたいと思った。昔はオフの時間はずっと本を読んでいた。しかし大きく精神のバランスを崩してからはすっかり読めなくなった。今一度文芸を楽しむような生活に戻りたい。

主治医がふと「フィクションを楽しめる余裕」というようなことをぽつんと言ったことがある。それはまさにその通りだと思った。刹那的な楽しみでは無い。数時間をかけてじっくり読み、その文字の世界に浸り、後に深みのある楽しみが残る。そういう楽しみ方が出来る余裕を再び得たい。

音楽も然り、映画も然り。つまりは文化的な生活を取り戻したいと思うようになったのである。

仕事も勉強も思う存分にやりたいが、何よりも生活も整えたい。自然な形で全てがとても順調でそのような実感すら無かった7,8年前にあったものと近しいところに今在る。そんな感覚が昔享受していた文化的生活感覚を再びと思わせているのかもしれない。遠くに失い、その姿すら見えずにいた「かつて」の理想的な生活を欲する事が出来る程度には健康度が回復したのかもしれない。

この予兆を、現実のものにする。今年をそういう年にしたい。


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