負けるたのしみ

最近また、フラフラとアプリでの将棋を指すようになった。
また、というのは、1年ほどほとんど離れていたからだ。ヘッポコだというのに負けるストレスだけは一人前で、精神衛生上よくないからとやめてしまっていた。
ならばちょうどいい、勉強でもして強くなればいいじゃないかと思う。実際そうしようとも試みたのだが、なんとなく焦点が定まらないまま萎んでしまった。じっくり指してみたいのに、切れ負けのルールでは受け潰しても勝てない。そういうもどかしさ(あるいは言い訳)もあった。

最近また指し始めたことに、これといった理由はない。ふと指したくなって、指してみたらそれなりに勝ったり負けたりだったものだから、そのまま癖になって指している、というところだ。
将棋そのものはまったくフラフラとしたもので、戦型も居飛車ということ以外はそんなに決めず、気付けばだいたいバラバラの力戦型になって苦労している。そんな調子であるから、当然局面はなかなかよくならない。どうにかうまく押さえ込めたと思ったら時間切れ、攻めがつながったと思ったら1手詰めを逃す、などなど散々な内容だ。
それでも少し前まではいくらか勝ち越せていたのだが、ここ最近はてんで振るわない。ありがたいことに戦績も出してくれるが、まったくありがたくない数字が並ぶ。でも不思議なもので、指すことは以前よりもたのしい。

いささか滑稽だが、以前の私は対局ボタンを押すのにも緊張していた。コンディションを整えて、深呼吸してからマッチングに臨もうとした。なぜか汲々としてプレッシャーを感じ、勝つと大きく息をつく。不安から対局をためらうこともしばしばあった。繰り返すが、私はヘッポコのアマ級位者である。
短い一局を大事にする、その意気やよし。けれども、仕事終わりにフラフラと指してつらい気持ちになるだけでは、そしてそのためにかえって将棋から離れてしまうのでは、ただ虚しいだけだ。
もともと、負けをなるべくすぐに忘れるよう努めてはいた。反省も大事だが、負けず嫌いが平和な日常生活を送るためには切り替えも欠かせない。それに加えて最近は「負けてナンボ」と開き直り、指すこと、考えることをシンプルにたのしむことにした。
棋譜が後世に残るわけでもないから、どんな手を指しても恥ずかしくはない。進むもよし、退くもよし。ポカは仕方ない。そうするとだんだん自然な気持ちで対局できるようになった。

ゲームとしての将棋の本質は、素朴なたのしみやワクワクする気持ち、飽きのこない魅力をプレーヤーが味わうことにあるように思う。だからこそ草の根レベルでも今日まで生き延びてきたのだろう。
プロの妙技ももちろん素敵だが、下手なりにさっぱりと続けるのも悪くない。ワクワクして、投了してから「やれやれ、ひどかった」と苦笑いする。そしてすっかり現実に戻る。これも立派なたのしみ方というわけだ。
のびのびと負けを受け入れてみたら、ようやくこんなあたり前の境地にたどりつくことができた。

もっとも、開き直ったからといってよい将棋が指せているわけではない。たのしいとはいっても、弱いのはやはり残念だ。
今日もお粗末だった。タップミスで駒を打つ場所を間違えたのはまだ仕方ないとして、頭金並の1手詰めを逃すとは。時間が切れかけて反射的に投げてしまった。あぁ、今度は中盤から崩れてしまった。
負けるのはやっぱり悔しい。それもまた将棋の、もといゲームすべての本質だろう。

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