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ホトトギスとの出会い

 今から5、6年前。学生のとき。

 岩手県で間伐体験なるものを夏に行っていました。東京のとある大学と岩手県のある町が協定を結んで、8月ごろに有志で集まった大学生が岩手に3泊4日で行って、森を整備します。すでに僕がまだ小学生だったころには始まっていました。いまは大学側がサークル化したので、大学と町という関係ではありませんが、そのサークルで募集を行って、集まったメンバーで岩手県に行っています。今年はこのご時世なので早々と中止が決まりました。リピーターも多く、OBOGも参加したり、僕も楽しみにしていたので残念です。
 この3泊4日がきっかけで、岩手県に移住して林業をやっている先輩もいて、たまに連絡をとったり、手紙のやり取りをしています。何度か遊びに行って、温泉やらカフェやら登山やらに連れて行ってもくれました。

 で、5、6年前の話。
 僕は別のサークルにも所属していて、そこの先輩から誘われて、1年生のときから参加していました。皆勤賞です。それで、一番経歴が長いということで、大学側の会の代表になることになり(後輩不足で2年間もやりました)、打ち合わせで岩手まで行ったりもしました。6月の終わりごろだったかな。
 まぁ、はっきりいって打ち合わせと言っても、何度も行っている行事なので例年通りにやればよかったんでわざわざ伺う必要はなかったんですが、ちょうど、大御所だった上の世代がごっそり卒業して、この間伐体験のきっかけをつくった先生も勇退されたので、存続と方向性の確認をしました。
僕が会の代表の時が一番危うかったですね。その年の間伐体験の参加者はぐっと減ってしまって(代表2年目のときは復活しました)、このまま潰してしまったら先輩たちに顔向けできないなとひやひやしてました。

 その打ち合わせのあと、岩手県に移住した先輩にこれまで間伐してきたいくつかの山に連れて行ってもらいました。
間伐したところとそうでない森は一目瞭然です。風が木々の間を通り抜けていき、日差しが降り注ぎ、地面を覆う様々な緑を明るく照らしてくれます。一方で、間伐していない森を見ると、忘れて置き去りにされたまま、時が止まって前に進むことができず、かといってもう元には戻ることもできない一方通行のトンネルに閉じ込められた気分になります。

 実際、僕たちがやってきた間伐は些細なもので、日本の林業の現状からみれば取るに足らない、やってもやらなくても見分けがつかない程度かもしれません。よく言われてるように木の値段は安いし(コロナの影響で材が大暴落してるみたいです)、人手も足りなし、多くの人にとって分かりやすく直接影響を及ぼすものではないので、特に気にかけられるものでもありません。それに素人の学生ということもあり、危険性を考慮して、鉈と鋸で地道に行っています。効率は最悪です。
 ここまで書くとやる意味あるのか思われるけど、そもそも先に書いたように日本全国にある山のほんのほんのほんのわずかに手を入れるだけなんで、当初から森をきれいにすることを一番に置いているのではありません。この間伐体験にとって、それは目的でもなく目標でもなく、日差しが降りそそぐようになった森は行為の結果です。本を読み続けたら、本棚が本でいっぱいになったことに近いのかなと思います。
 大切なのは本棚をいっぱいにすることではなくて、普段の生活では気にもかけない森と無縁な、繋がりを持たない都会に住む学生が、非効率な鉈と鋸で筋肉痛になりながら汗水たらして、木を倒す行為とそれによる森の変化を感じること。また名も知らない、目的も持たない、あからさまな秩序もない、蜂や蛇もいる少し危険な森に入るという行為に意味があると思っています。
 僕はその感覚が癖になって、卒業後はひたすら田舎で過ごしてきましたし、山や森が好きになりました。

 森の根元まで風が通り、陽が当たるから、植物の多様性が増します。人が手を加えることで、生があふれ出します。
 なので、欧米的な環境保護(保全)の考え方にはイマイチ賛同できないところがあります。手つかずの自然というほうが不自然に感じるんですけど、まぁ中途半端に書きだすときちんと説明できないので、このことは後日書こう。

 ホトトギスも出会いは岩手県でした。
 草間彌生的なドットが印象的で、一目見たときから大好きな花です。
毎年、夏になると今年は会えたらいいなと小さく願っています。




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