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第24話「蛇夜」

誰かが湯船に浸かっている音。しかも女性の声を聞いて、僕はその場から動けなかった。だけど、視線は湯けむりの向こう側。


「えっ!?」と僕は湯けむりが無くなった光景に目を疑った。


「お兄ちゃん、何考えているのよ!幾ら何でもやり過ぎでしょう!」と雫が胸を隠して睨みながら叫んできた。


「ええぇ!?な、何でお前が居るんだよ!」


「それはこっちの台詞よ!ここは女湯でしょう!早く出て行きなさいよ!」と雫が険しい顔して声を上げた。


慌ててタオルを掴んで、僕は猛ダッシュで露店風呂から出て行った。何が何だかわからない。僕は確かに男湯へ入ったはず。脱衣所へ戻ると急いで浴衣を着て振り返った。もちろん雫が追いかけて来ることはなかったけど、この状況に納得がいかない。


渡り廊下を渡って、突き当たりを右に曲がった。左が女湯だと赤い矢印で確認している。普通に考えて間違えるはずがない。だったら、前を歩いていた女性はどうなんだ!?彼女は左へ曲がったけど、露天風呂に居たのは雫だけだった。


脱衣所を出て、僕は自分の行動を疑った。なんと、女湯ののれんがぶら下がっているではないか。馬鹿みたいに目を擦っては再確認。二度、三度見ても女湯だとわかる。僕は右を曲がったつもりで左へ曲がったのか!?


信じられなかった。まだボケるような年齢じゃない。無意識で曲がったとしても酷過ぎる。溜め息をして頭を掻きながら、数分前の自分を振り返る。はっきり言って納得はしていない。


このあと、きっと雫から攻められるだろう。アイツのことだから痴漢行為だとネチネチ言ってくるに違いない。これほど屈辱的なことはない。理不尽に攻められるなんて、たまったもんじゃない!


だが、これは紛れもなく真実で夢なら覚めて終わりだ。甲子園で敗退した野球少年ように項垂れて、僕は脱衣所を出て突き当たりの前へ戻って来た。

自分の目を疑うしかなかった。赤い矢印は右が女湯で、左が男湯と案内していた。つまり、僕は右に曲がって女湯を選んでいるというわけだ。


部屋に戻ろうかと思ったが、ホントに男湯があるのか確認したかったので、疑心暗鬼のまま、男湯の方へ向かうのだった。のれんの前で立ち止まって、今度はしっかりと確認する。

のれんの文字は男湯と確実に書いている。今度こそ間違いないと、僕はのれんをくぐった。


脱衣所に人の姿はない。それでも慎重に行動した。浴衣を脱ぐ前に露天風呂の方を見ると、山間の景色が広がる露天風呂。すでに真っ暗で遠くの景色は街の光が見下ろせる。左右を見て確認したが、露天風呂に誰も浸かっていないのが伺える。


今度こそ大丈夫だ。ホッと息をついて脱衣所で浴衣を脱いだ。二度目のかけ湯を浴びて、ゆっくりと身体を洗い始めた。洗い終わると、落ち着いて露天風呂を眺める。

ひょうたん型の露天風呂。山間の広がる景色に街の光は心を和ます。都会では味わえない自然豊かな景色と匂い。取材じゃなければ、もっとゆっくりできるのに。


隣の女湯とは板で仕切られており、板間の高さは五メートルは超えていた。タオルを岩肌に置いて、少しだけ白っぽい湯の中へ足を沈めた。ここの温泉の効用はなんだろう。そんなこと気にする性格でもないのに、僕はそんなことを考えては夜空を見上げた。


そのとき、隣の女湯から雫が声を掛けてきた。


「お兄ちゃん、空見てよ。とても綺麗な星空じゃない」


「ああ、見てるよ。都会の空と全然違うな。やっぱり、田舎の空は星が綺麗だよ」と僕はそう言って、手のひらで湯船をすくって疲れた顔にかけた。


フゥっと息を吐く。そして深く深呼吸して束の間の休息を味わうのだった。明日は黒土山に行って調査しなければならない。ここから黒土山は見えるのだろうか。

岩肌に腕を乗せて、僕は真っ暗な山間を見つめた。ここへ来る前、調べたら黒土山は南側にある。標高は大したことのない山。素人でも大丈夫な山だろう。僕たちが知りたいのは、羽鳥が見つけた謎の鱗。


そして、鱗に付着していた成分が黒土山にある。果たして黒土山に手掛かりはあるのか。見つかってほしい。そんな期待をしていた。それにしても気持ちの良い温泉だ。これなら相棒も連れて来たら良かったな。


「ここは混浴でしたっけ?」


不意に僕の真上で声が聞こえた!?


「お兄ちゃん!明日って何時に出発するの?」と雫が女湯から聞いて来る。


だが、今の僕はそんなことに答えてる場合ではなかった。今度こそ、今度こそ間違いなく男湯で、女性の声で話しかけられたのだった。


第25話につづく


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