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第63話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」

灰色の雲が真上に覆い被さり、マチ針みたいな小雨が僕の肩を濡らした。斑模様の黒い点がベタ塗りとなって黒く染めた。眠気覚ましにはちょうど良い冷たさだろう。僕は傘もささず駅へ向かって歩いた。とにかく帰って部屋で身体を休ませたかった。コンビニでクラッカーを買って、僕はどこにも寄らずにまっすぐ家へ帰った。

途中、山手線で車両がすれ違ったとき、きっと遅番の美鈴が乗っているだろうと。僕たちは寄せては離れて、お互いの道を歩こうとしていた。それは心の平穏が欲しい僕ーーーーが望んだ時間なんだろう。


新しい住まいは前のマンションから少し離れた場所だった。鍵を取り出して、鍵穴へ鍵を挿しては思い返していた。『鍵のない扉を開けましょう』僕は、僕らの鍵のない扉を確かに開けた。だけど、それは一人の寂しい人間の命を奪った。僕は最近、そんな風に思っていた。あれは本当に正しい道への行動だったのだろうかと?


二十歳の長谷川千夏は何を思い、僕にそんな言葉を告げたのだろう。潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く。これまでも僕たちは、宛てのない道を歩くだけなんじゃないのか?

鍵のない扉を開けた結果、僕にわかったのは美鈴の処女を奪ったのは僕だというだけ。だったら朋美の命を奪ったのは誰?


ソファーに深く沈んでは、そんな答えのない自問自答を繰り返していた。今では鍵のある扉を開けては閉めて、無気力に似た毎日を過ごしているようだった。僕という僕をどこかに置き忘れたような感覚さえあった。

『寒さのある寂しさ』と、四十三歳の長谷川千夏が言った言葉。その言葉の本質がわかったような気がする。あの日、大人の成人式を経験してから、僕は僕という大人時代が麻痺しちまっている。


それが僕の気持ちだった。


窓の向こう側が暗くなった頃、小雨だった雨が強くなり、永久的な音を聴かせていた。アンバランスな半音や低音が、アンバランスなリズム音を使って、デタラメな音源を生み出していた。クラッカーを齧っては、僕は暗がりな部屋でビールを飲んだ。平行線の思考が続いたあと、僕は朋美の吸っていた巻き煙草に火を点けた。


キッチンの換気扇が休むことなく回り続け、煙をゆっくり吸っては吐いた。揺らぐ煙を見つめては、僕は世界の音を遮断した。

安らぎの場所、静寂すぎる図書館の雰囲気を再現するみたいに……


何枚目かのクラッカーを齧った瞬間、僕は漂う煙と混ざる感覚に陥った。それは女性の秘部に包まれたような感覚だった。僕は新世界への扉を開けてしまうだろう。


禁じられた世界の扉を……


空になった缶ビールが無造作な姿でキッチンのシンクで転がっていた。一つを灰皿代わりに使用して、僕は煙とクラッカーとビールを味わい浸透していた。思考はデタラメに麻痺している。

秘部に包まれた感覚が、口の中を美味しさの美味でいっぱいにした。カランと空になった缶ビールがシンクの中で倒れる。クリアな空気は換気扇の向こう側へ吸い込まれて消えた。


鍵のある扉を開ける音が、空気の薄い空間を震わせた。それが禁じられた世界の合図だった。キッチンから壁に掛かった時計を覗く。

時刻は十七時を指していた。こんな時間に美鈴が帰ってくることはない。美鈴は店で働いてる時間。今頃オーダーを取っているだろう。

だったら、他に誰が帰って来る?鍵は閉めていた。だけど、鍵を開ける音は確かに聞こえた。


ペタペタとフローリングを裸足で歩くような音がした。僕の視界に一人の女性が目に入った。その瞬間、僕は女性の姿に声を失った。

髪の毛は濡れて、前髪が目の下まで垂れ下がっている。身体はバスタオル一枚しか巻いていない。僕の視線に気付いたのか、女性は顔だけ横に向いて、口元に微笑みを魅せた。


この異常事態に、僕は都会の人間みたいに、無関心な感情で見守っていた。勝手に人の部屋に入って来た女。髪の毛は濡れているし、バスタオル一枚だけ巻いた女。しかも、部屋には女の匂いなのか、石鹸の香りが漂っている。

とても良い匂いだと思った。僕の気持ちを安らかにしてくれる。そんな匂いを鼻先に感じた。女はゆっくりと近寄り、その白くて細い腕を伸ばした。二の腕に伝う雫が、ピアノの鍵盤を滑らせて弾くように走った。

一粒一粒がぶつかっては、大きな粒となって落ちる。その仕草は妖艶で、見るもの全てを虜にするようだった。前髪が垂れ下がって、女の顔は鼻から下しか見えなかった。それでも女の視線は、僕の心を突き刺してその場から動けなくしていた。


そして、口にくわえた巻き煙草を取り上げると、僕の目の前で何の躊躇なく吸って見せるのだった。綿菓子みたいな煙を吐いたあと、僕の手を掴んで引き寄せた。

目のやり場に困る胸元を見せつける女。僕の顔へ顔を近づけたとき、固まる僕の唇へそっとキスを重ねた。


煙が目に染みるような感覚と重なり、僕は女を引き寄せて唇と唇で欲情への扉を開くのだった。


第64話につづく

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