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第37話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」

酒は美味しくない。それが僕の感想だった。初めてのアルコールがウィスキーのロックだったのが悪かったのだろう。普通は飲まないわよーーーーと彼女が言った。そうなら初めからビールにすれば良かった。

クラッカーを齧っては、僕は缶ビールに酔いしれた。一口齧っては、一口ビールを飲む。そんな繰り返しで気分は上々だった。酒と言うのは思考を鈍らせるものではなくて、思考そのものを楽しい気分に変えるのだ。


これなら皆が酒を飲む理由も理解できた。もっと早くに経験するんだった。今からでも遅くないわよーーーー彼女はそう言うと、クラッカーを口にくわえて僕の唇に口移した。

妙な興奮が僕の心を刺激する。ビールの炭酸と同じように、内側から刺激しては消えてなくなった。

そこから刺激を求めて、ビールとクラッカーの繰り返しに酔いしれた。


こんなのはどうかしらーーーーと彼女はビールを口に含んで、僕の口へ唇を重ねた。炭酸の刺激と彼女の柔らかい唇の感触が、口移しの架け橋となって渡る。

おまけに舌も一緒に寄り添い、僕は彼女とのキスを楽しんだ。笑う彼女の口元からビールの滴が滑り落ちる。顎のラインを吸い付くように滑っては、鎖骨の溝へと落ちた。彼女の舌触りは最高に気持ち良かった。


これが僕の最後の記憶として残った光景だったーーーー


翌朝、僕は喉の渇きと尿意で目が覚めた。と言っても、瞼が重くて開けられない。手の感覚が指先へ少しずつ移動する。こめかみあたりに少し鈍い痛みがあった。

重い指先を動かすと、柔らかい感触が爪に触れた。一度瞼をおもいっきり瞑って、僕は顔をゆっくりと上げた。

そして、持ち上げるように瞼も開けたとき、目の前に黒い茂みが見えた。頭の鈍い痛みを忘れるほどの光景だった。黒い茂みの正体に、僕はなんとなく気づいたからだ。

頭の左右に白い肌をした太ももが挟んでいた。黒い茂みが女のアンダーヘアーと気づくのにコンマ何秒とかからなかつた。


僕は女の股の間で寝ていたのだ。


息を吸うのを忘れるぐらい、僕はゆっくりと起き上がった。黒い茂みの奥で女の秘部も一瞬見えてしまう。薄暗い部屋の中、僕と女はフローリングで寝てしまったようだ。

素っ裸の女が、仰向けで寝息を立てていた。小さな胸を露わにして女は死んだように寝ている。僕は冷静に女を見下ろして、唖然としてしまった。


裸の女は北城美鈴だった!!


僕は断片的に記憶していた昨日ことを思い返した。タクシーに乗ってから、記憶が切り落とされたように思い出せない。


どうしてこんな事にーーーー


そのとき、僕の背後で足音が聞こえるのだった。


「起きたのね」と背後からの声に振り返った。


僕が何かを言おうとした瞬間、背後で声を出した女は、唇の前に人差し指を立てて黙るような仕草で合図をした。

バスタオルを身体に巻きつけた女は雛形朋美だった。濡れた髪の毛から滴が粒となって落ちる。


「彼女が起きちゃうでしょう。今は早く出て行きなさい。聞きたいことは山ほどあると思うけど、とりあえずは」と雛形さんはそう言って、僕の横を通り過ぎた。

そして、フローリングに横たわる北城美鈴へシーツをかぶせた。


「あなたも着替えなさい。今、彼女が起きたら大変なことになるわよ。大怪我してもしらないわよ」


真顔で言う雛形さんの言葉に、僕はこの状況が危ういと理解した。トランクス一丁の僕と裸の北城美鈴。

この状況に、何があってもおかしくはなかった。だけど今は、雛形さんの言う通りにしよう。素早く着替えて僕は部屋を見渡した。

どうやら雛形さんの部屋らしい。カーテンレールへ引っ掛けたハンガーに、雛形さんがバイト先でよく着ているパーカーがあったからだ。


「すいません……」と僕は小声で言うと、軽く会釈をして部屋から立ち去った。


小綺麗なアパートから出たあと、僕は携帯電話を探した。ジーパンの後ろポケットは財布しか入っていなかった。

どこかで落としたのか、僕は振り返ってアパートを眺めた。すると、二階から階段を駆け降りてくる雛形さんの姿が見えた。


「海野くん、携帯忘れてるわよ」と急いで着替えたのか、長袖のシャツにチノパンという格好で駆けつけてくれた。


濡れたままの髪の毛、長シャツは少し濡れて胸の辺りがうっすらと透けていた。僕は携帯電話を受け取ると、困った顔で彼女を見つめた。


「一人で帰れるでしょう。何がなんだかわかんない顔してるけど、知りたかったら今夜、アパートに来てちょうだい。私、今日もバイトだから終わり時間はわかるでしょう」と彼女はそう言って、目でサヨナラと合図をしてからアパートへ戻った。


残された僕は、しばらく携帯電話を握りしめたままその場から動けなかった。すべての記憶が中途半端で曖昧だった。昨日の夜、僕たちは何をしていたのだろう。

嫌な予感しか浮かばなかった。僕はきっと酒に飲まれて、取り返しのつかないことをしてしまったのか?


それともーーーー


重い身体と頭の淵に鈍い痛みを感じながら、僕はその場から立ち去った。まるであてもなく歩くように。

潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く。その言葉だけが、僕の全身を貫いていた。


吉祥寺駅から歩いて十五分くらい離れた場所に、雛形さんのアパートはあった。あてもなく歩く僕の目に、見覚えのある光景が見えてきた。腕時計は無くなっていた。僕は携帯電話で時間を確認して駅前の喫茶店へ入った。

喉の渇きをなんとかしたかったし、緊張して忘れていた尿意もあったので、とにかくトイレに行きたかった。


大量の尿を出すと、少し気持ちは落ち着いた。席に着くと、僕は通された水を一気に飲み干した。エスプレッソを注文して、水のおかわりを二回連続で頼んだ。

こんなにも喉が渇いたのは、生まれて初めてだった。


そして、記憶を無くしたのも初めてだった。心に妙な罪悪感を感じながら、僕の中で形のない罪だけが、じんわりと滲むのだった。


第38話につづく

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