第29話「蛇夜」
浴衣の帯に手をかけたとき、チノパンの後ろポケットで、突然携帯電話が鳴り出した!ビクッと身体を震わせて、お互いの動きが止まる。なんてタイミングで鳴るんだと、一気に僕の心を冷静にさせた。
慌てて鳴り響く携帯電話をポケットから取り出して、かけてきた相手を確認した。電話をかけてきた相手は、僕の相棒とも言える男だった。出版社に勤めている編集者で、僕が小説を出版するとき、毎回担当をしてくれる人物でもあった。
条件反射で携帯電話の通話ボタンを押して、僕はその場から立ち上がり部屋から立ち去ろうとした。チラッと後ろを振り向き、美玲さんを見る。彼女は顔を伏せて寝転んだまま動かない。
「も、もしもし!」
「やあ、草餅くん。三重県の旅はどうだい?雫ちゃんと喧嘩はしてないだろうな」
「何!?」と思わず怪訝な顔になってしまう。
「あのさ、頼まれた件なんだけど、けっこう苦労したぜ。日比野鍋子の出生を調べるの」
出版社に勤めている彼は何かと知り合いが多い。僕と違って社交的な奴だ。そんなこともあって、何か調べ物があるときは、毎回、彼にお願いをしていたのだ。
三重県に来る前、彼に一つだけ頼み事をしていた。それは、日比野鍋子の出生を調べてもらっていたのだ。羽鳥から三重県出身なのは聞いていたが、詳しい家族構成などはわからないままだった。
「ちょっと待ってくれるかい?」僕はそう言って、襖を開けて部屋から抜け出した。
何もこのタイミングで連絡を寄越すなよって思ったが、内心は日比野鍋子の過去を知りたかったので諦めるしかなかった。相棒も仕事の合間で調べてくれた、その好意は感謝しなくてはならない。部屋から出て、僕は携帯電話を片手に廊下をウロウロと歩いた。
「それで、日比野鍋子について何がわかったの?」
「驚くになかれ。なんと、草餅くんが行こうとしている黒土山の麓にある集落出身なんだ。つまり、君から聞いた鱗に付着していた成分でもある。ようは黒土山と大きく関係しているってことだろう」
「なるほど、それは面白い。その他には?」
「もう一つ、日比野鍋子の親なんだけど……」
「えっ、そうなの!?それって、何かあるな」
相棒と会話をしている間、『ニジマスの間』の前を行ったり来たりして話していたが、部屋から美玲さんが出て来ることはなかった。きっとシラけているだろう。もしかして、怒っているかもしれない。
そんなことを考えながら、僕は相棒との会話を終えると、部屋へ戻ろうとした。
すると、不意に背後から誰かが声をかけてきた。
「ちょっとお客さん。どこへ行くつもりですか?」
振り向くと、宿屋の仲居さんが呼び止めてきた。「何か用ですか」と聞き返す。すると仲居さんは、僕のことを不審者のような目で見るのだった。
「その部屋へ入ろうとしませんでしたか?」
「ええ、それが何か?」
「そこは従業員専用の部屋ですよ。お客さんは入らないで下さい」
従業員の部屋?この人は何を言ってるんだ!?ここは『ニジマスの間』で美玲さんが泊まってる部屋だろう。
確か部屋の入り口付近に『ニジマスの間』と書かれていたはず。入るときに見ていたのを思い出したので、僕は視線を上にあげた。
だが、入り口付近に『ニジマスの間』と書かれていた札は無い!仲居さんが言うように、従業員専用という札がぶら下がっていた。
どういうことだ!?部屋が無くなっている。僕は確かに数分前、美玲さんが泊まっている部屋から出た。何がなんだかわからない。僕は一体、誰と会っていたんだ。
第30話につづく
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