第4話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」

たった五才の保育園児が何を感じるのか?それは、五才の僕に訊ねてみないとわからない。桃香とは年長組のときに、仲良くなったような気がする。


確か。


あれから数十年経ったけど、彼女は僕のことを覚えていた。それは、とてつもない記憶力だと思う。正直言って、僕の方はうろ覚えだったし、横に並ぶ彼女の顔を改めて見ても、微妙な残像しか流れていない。

もしかして、僕の顔に印象があったのか?それは無いなと自分で納得する。

勘違いしていないが、僕は至って平凡な顔をしていた。


「ねぇ、海ちゃんは覚えていたでしょう。私はどこかで覚えていたの。だから、地域の違う成人式に来たんだよ」


「地域の違う?」と前を向いたまま彼女に質問した。


「うん。保育園を卒業してから、私は隣町の小学校へ行ったの。海ちゃんはこの地域だと思うけど、私は違うの。だから、ここに来てる人たちは知らないんだよね」そう言って、彼女はハニカムように笑った。


そんなこと言ったら、僕の方こそ知らない連中ばかりだ。その証拠に会場へ集まる成人たちは、僕と彼女の存在を無視するように過ぎ去っていた。

君と僕は保育園が一緒で、何度か会話をしている。海ちゃんなんて気安く呼ぶけど、僕らはあることで関係性を持っていた。あの頃、何を思ったのかしらないけど、僕は成長するにつれて考えるようになっていた。


「大人の成人式」と僕のセリフを代弁するように彼女が呟いた。


心の中で、僕はその言葉を繰り返す。今回の成人式へ行こうと思ったのは、母親の薦めでもなかった。本心は違っていたんだ。僕はかすかな記憶を覚えていた。心の中で嘘を装い、本音というキーワードを隠していた。


口数の少ない僕と居ても、きっと退屈なんだろうな。そんなことを言ったら僕と関わるすべての人間が、そう思うだろう。それでも彼女は、僕の側から離れなかった。

そして僕は、無声映画みたいな風景を見つめながら、これから始まるもう一つの成人式について考えていた。


母子家庭だった僕は、いつも最後まで残っていた。そんな光景に慣れていたのか、不思議と寂しくはなかった。五才の僕がそんな風に思ったのか、それとも二十歳の僕が振り返って思ったのかわからない。

ホントは寂しかったかもしれないし、そんな環境を受け入れていたかもと考えていた。


二十歳の僕が、五才の僕自身を考えての答えであった。つまり、五才の僕がどんな風に思っていたかなんて、永遠にわからない。もっと、純粋な気持ちで感情を出していたから。

だから、今から遡る記憶は五才の僕であって、二十歳の僕が解釈している。
人は絶えず、心の成長を求めているだろう。話しは逸れたけど、僕が初めてあの言葉を聞いたのは、母の迎えを待つ平日の夕方頃だった。


あの日が何月で何曜日だったのか覚えていないけど、ひどく寒い日だったのを身体は感じていた。


「省吾くんのお母さん、今日も遅いわね」


誰も居ない教室に一人の大人が入るなり、僕の背中へ向かって聞いてきた。僕は返事をするわけでもなく、背中を見せたまま頷くのが精一杯だった。


「寒くない?今日はやけに冷えるでしょう」


ホントは寒かった。だけど、僕はワガママも言わないし、大人を困らせることは決してしなかった。それでもやっぱり肌寒かったのか、肩を震わさせるのと同時にクシャミが出てしまった。


「ほら、やっぱり寒いんでしょう。無理しないで、先生が毛布を持ってきてあげから」そう言って、大人は教室から出て行くのだった。


自分のことを先生と呼ぶ大人。彼女は僕のクラスを受け持つ担任だった。名前は千夏(ちか)先生。僕の記憶が曖昧だったとしても、先生の名前だけはしっかり覚えていた。何故なら、僕は先生のことが好きだったから。


初恋と呼んでいいのかわからない。もしかしたら、普段母親と接する時間が少ない僕にとって、千夏先生は母親みたいな存在だったのかもしれない。

だけど、確かに僕は先生に惚れていたと思う。二十歳の僕が言うのだから間違いない。


彼女の残像を、いつも追いかけていたような気がした。五才の恋と二十歳の恋は同じくらいの熱量なのか?僕の恋心は五才の卒園式から終わっている。

心の中の彼女はあの頃と変わっていない。たぶん、これからも変わらない。ずっと彼女は、僕の想像の中で生きているんだ。


毛布を手にした千夏先生が教室へ戻ってきたとき、僕は初めて顔を合わせて話すことになった。そして、彼女から秘密の会のことを聞くことになる。


『大人の成人式』と教室の隅で座る僕に毛布を被せながら、千夏先生は囁くように言った。


五才の僕は、胸をドキドキさせて見上げた。千夏先生の髪の先端が頬に触れたとき、僕は大人の香りを鼻先で覚えた。


「省吾くん、先生とお話しない。君が遠い未来で、確認してほしいから教えてあげるね。二十歳になったら行きなさい。大人の成人式と呼ばれる会へ」


僕たちに『大人の成人式』を教えてくれたのは、千夏先生から聞いた話しだった。あの日が寒かったのは、これから起こる出来事を予想していたのかもしれない。


第5話に続く……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?