見出し画像

第67話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」

車を持っていたのが幸運だった。真夜中の都心部は嘘みたいに道は空いていた。三十分もかからず目的の図書館へ到着した。車から降りて、人の居ない公園内へ足を踏み入れる。『鍵のない扉を開けましょう』と背後から声が聞こえた。振り向くと彼女が立っていた。


久しぶりに出会った彼女は、淡い桃色のキャミソールを着ていた。頭の中で思ったのは、彼女と彼女はリンクしていたので同じ格好を想像してしまう。

そんな僕の頭の中を覗いて、彼女は笑ったかもしれない。笑ったのは二十歳の長谷川千夏。


『海ちゃん、あなた今、彼女の姿を想像したんでしょう。私と彼女は一心同体だからね。私がこんなフリフリのキャミソールだから、図書館で待ってる彼女もキャミソールなんだって。だけど、私は二十歳の長谷川千夏だからキャミソールは似合うわよ。でも四十三歳の長谷川千夏はどうなんだろうってね。君はそんな風に想像して考えた』


「そうだね。君の言う通りだよ。別に似合わないとかは思わないけど、僕からしたら歳上の女(ひと)だから」


『そうね。でも、私が言うのは変だけど、今夜の彼女は世界中の誰よりも美しいわよ。だってあなたに恋をしてるから』


彼女と彼女は一心同体。だったら、二十歳の長谷川千夏も僕に恋をしてるのか?そこら辺がわからない。彼女の目的さえわかっていない。僕は彼女の言葉に従って、鍵のない扉を開けたけど、今の僕が生きる道はどこかズレている。何か間違っているように思ってた。


最近の僕は……


『鍵のない扉なんてないでしょう。違う?あなたは答えを求めすぎなのよ。彼女だって、大人の災いを経験してるのよ。その意味を知りなさい。今はそこからよ。あなたの生きる道は……』


彼女がそう話した後、公園内の灯りが一斉に消えた。道を照らしていた光は闇へ逃げて、僕を一人残して暗闇が包み込んだ。木々の葉が噂話をするように騒ついた。

そしてまた、彼女の姿も闇へ溶けて消えていた。しばらく闇の向こう側を見つめて、僕は軽い衝撃を受けつつ歩き出したーーーー


この世は良からぬ闇が知らない場所で飛び交っている。もしも黒い紋白蝶が飛んだなら、それは不吉な前兆かもしれないだろう。背後の影が語るみたいだった。図書館の裏手に着いたとき、僕は立ち止まって扉が開くのを待って見た。

『鍵のない扉を開けましょう』ーーーーもしも僕が答えを求めなかったら、きっと扉は自然と開くだろう。僕はもう求めない。自然の運命に流れるまま、僕はそれを受け止める。『鍵のない扉を開けましょう』から、『開けてもらおう』と。


風が吹いたような感覚を感じた。そして、僕の目の前で扉はゆっくりと開いたーーーー


生ぬるい風が扉の隙間から束となって流れ出す。扉に触れなかった僕。内側から扉を開ける音、これが『鍵のない扉を開けましょう』と、考えようとはしなかった。

僕は答えを求めすぎたから。二十歳の長谷川千夏がくれたヒントを無駄にしてはいけない。自然の運命に任せよう。


開いた扉から千夏先生が淡い桃色のキャミソールで現れた。二十歳の長谷川千夏が言うとおり、今夜の彼女は世界中の誰よりも美しいと思った。僕は軽く会釈をして、先生に近づいた。そして、誰も居ない図書館の中へ入るのだった。

非常灯の灯りだけが館内を照らす。前回と同じで空気が辺りを漂っている。冷房が効いてる訳じゃないのに涼しかった。僕と千夏先生は、中央の円卓のソファーへ座った。


「先生、どうして図書館なんかに居るの?」


「寂しくて。なんて言ったらどうする?」


先生は僕の横に座り、顔は俯いたまま細い声で言った。二の腕は細く、唇は少し濡れたような艶があった。僕は何も答えず、ソファーへ置いた先生の手の甲に手を重ねた。

季節は夏だったけど、先生の手は北風から生まれたように冷たかった。氷とは違う冷たさに、僕のぬくもりを奪うみたいだ。


寒さのある寂しさみたいだ。


「先生、寒さの寂しさはぬくもりを求めないの」


「どうして?これは私の問題なのよ。」


手が裏返り、重ねた僕の手をギュッと握り返した。僕も同じように握り返して先生の方を向いた。まだ俯いたままの先生が、淡い非常灯の灯りに照らされている。


「僕の初恋は先生だった。あの頃、僕は先生に夢中だったと思う」


「だった……なんだよね」と千夏先生が呟くように言った。


「だった……なら、今夜は来なかったよ。僕が言いたいのは、初恋は初恋であって、始まる恋でもあるんだよ」


「初恋が初恋で始まる恋。不思議な感情なのかしら?海ちゃんは私のどこを好きになったのかな」


「あの頃の僕に会えたらわかると思うけど、それは無理なんだよね。だから、今の僕は純粋に先生が好きだよ。寒さのある寂しさなんか、僕が暖めてあげたい」


「ずいぶん歳上よ。私は……それでも……」


答えを求めすぎたから、僕は道から踏み外してしまうのかな。二の腕を掴んだ瞬間から、僕は檻から放たれた獣と僕を僕で重ねた。きっと、千夏先生が北風で生まれたような冷たさなら、僕は暖めてあげる自信があった。


非常灯の灯りが音もなく消えた……

第68話につづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?