偶(たまたま)の出会い

第212回 短編小説新人賞 もう一歩の作品

「翠ちゃん、髪伸びたわね」
 金曜日、リモート会議の後の個通で上司にやんわりとそう言われた。
 言われてみれば家に閉じこもって長らく髪を切っていなかった。いくらリモートワークで社内の人間としか接しない業務とはいえ、社会人としては目にあまるレベルの髪の乱れっぷりだったのだろう。
 上司はいつもこういう回りくどい注意の仕方をする。同僚にはそれをねちっこいことをすると嫌う子もいたけど、私は上司のそういうやり方が存外嫌いじゃなかった。相手に恥をかかせないやり方は、通じる相手には真似をしたいとも思っていた。
 だからおとなしく月曜日に有休を取って美容院の予約を入れた。このご時世で土日に家を出る勇気はなかった。
 今の勤務態勢では、有休は日を選べば取りやすかった。

 行きつけの美容院は徒歩十分の距離にあるショッピングモール、その中に入っている全国チェーン店。成人式の着付けやらなんやらでことあるごとにお世話になっているなじみの店だ。
 身支度を調えて、玄関に置いている全面鏡を覗いて、マスクをつけるのを忘れていたことを思いだしてマスクをして、そして私は家を出た。

「いつもの感じで」
「はーい」
 それだけで通じる気楽さに身を委ねて一時間。
 すっかりさっぱりした髪にシュシュを巻くと、ツルツル滑って頼りなかった。トリートメントをしてもらったのと短くなったのとでシュシュがなかなか定着しない。
 まあいいか。さすがに落ちたらすぐわかるし。
 ついでだから久しぶりにウィンドウショッピングとしゃれ込もうか。

 ここ最近は通販で九割方の買い物を済ませ、残り一割を徒歩五分のコンビニで済ませていたので、外出は久しぶりの気分だった。
 人間、意外と外に出なくても生きていける。
 まあ、自分の髪を切る技術どころか散髪用のハサミすら私は持っていなかったので、散髪のための外出をすることになったわけだが。

 目的もなくフラフラとあてどなくショッピングモールを歩いていると、オモチャ売り場に突入してしまっていた。それに気付いて踵を返そうとしたところで、私はガチャガチャコーナーに気付いた。
 ガチャガチャは、なんか好きだ。会社のデスクにも我が家の戸棚の上にも、統一感がなくてよくわからないフィギュアが並べ立てられている。
 戻るはずだった足をガチャガチャコーナーに進める。
 しばし筐体を眺めながらその間をするすると歩いて行く。
 アニメとか漫画とかゲームとか、いわゆる版権もののガチャガチャはなるべくスルーする。興味がないわけではないが、私は大体そういうのでは一人二人の少数のキャラを推しにするタイプなので、好きになったキャラだけをガチャガチャで狙うのは至難の業となるのだ。だからなるべく視界に入れないことにする。
 あ、あのストラップ、絵柄がかわいい。めったに商品化されない推しがいる。でもスルーだ。スルーと言ったらスルーだ。
 ほら、この『忍者×食器』シリーズなんか面白いじゃない。こっちを見てみよう。湯飲みやら平皿の上で忍者がポーズを取っている。一回三百円。なかなか好きなやつだ。回しちゃうか。回しちゃうか?
 などと無邪気にガチャガチャを見渡していた私は、一人の少女を見つけてしまった。
 彼女は近所の中学の制服を着ていた。
 市内の中学校が休校しているという話は聞かない。そもそも制服を着ていることからしても、彼女は学校に行くと言って家を出たのだろう。パンパンのスクールバッグがそれを裏付けている。
 テスト期間で中学が午前中で終わったということもないだろう。それだったら近くに娯楽のそう多くない東北の片田舎、このショッピングモールには学校帰りの中学生が溢れているはずだ。我が母校の生徒達にテスト期間だから家でおとなしく勉強しようなどという殊勝な生徒は少ないから。
「…………」

 つまりこの女子中学生は絶賛サボり中なのである。

 さて、このご時世でなくとも見知らぬ人に声をかけるというのは大変な労力がいる。そうでなくとも年若い少女に声をかけるというのは同性からでもけっこう気を遣うものだ。
 十も年が離れればもうそれは別の文化圏の人間と呼んでよい。同性なだけの異星人だ。『大人』と『子供』ともなれば尚更だ。多分彼女の普段使ってる言葉の単語にすらわからないものがたくさんあるに違いない。
 ましてや相手はサボっている中学生。世の中に反抗的なお年頃。私を歓迎してくれるとは思えない。
 となれば年長者として社会人として、ここはどうするべきか?
 もちろんスルーだ。見なかったことにして帰る。さよなら『忍者×食器』。機会があったらまた会おう。
「あ、しもた」
 中学生を迂回して行こうとした時、中学生のマスク越しのくぐもった声が聞こえた。聞こえてしまった。
 思わず振り返るとガチャガチャのカプセルが彼女の手からこぼれ落ち、音を立てながら床に転がって、そして私の足元で止まった。
「…………」
 スルーは、できなかった。
 私はそれを拾い上げた。中身は『甘味ミニチュアにゃんこ』シリーズ第三弾のクラッカー猫だった。
「……どうぞ」
 私は仕方なくそれを少女に手渡した。
「どうも……」
 カプセルをあまり興味なさそうに受け取ってから、少女はぺこりと頭を下げた。
 これで終わり。終わりでいい。さようなら、と言う必要すらもない。これ以上関わる必要などどこにもない。
 私は少女に早急に背を向ける。するとその弾みで、私の髪からシュシュが滑り落ちてしまった。
「……落ちましたよ」
「……ありがとう」
 振り返ると短い髪が首筋をくすぐる。
 シュシュを受け取って、こうなってしまうともうそれではさようならともいかなくなってくる。それはさすがに気まずい。
 シュシュは手首にはめる。髪に飾ってもまた滑り落ちそうだったから。
「…………」
「…………」
「中学校、行かないの?」
 こぼれてきたのは我ながらストレートすぎる言葉だった。
 少女が目を見開く。しばらくどう答えたものか彼女は迷っていたけれど、観念したようにうなずいた。
「……まあ」
「……そう」
「……お姉さんこそ、会社は?」
「有休」
 まだお姉さんと呼ばれる見た目であることにホッとしながらそう返す。アラサーはもう子供からおばさんと言われても怒っちゃいけない年齢だと私は知っている。
「そうでなくてもリモートワークだから、サボっててもあんまバレないけどね」
 散髪をサボっているのはバレたが。
「ああ……。中学もリモート授業、ちょっとやってました」
 それはニュースで見た。結局、田舎の学校は時勢に合わせて通学を再開したのも知っている。
「……心配するんじゃない? 先生」
 高校生くらいにになればサボってる生徒がいても教師はそこまで気にしていなかった。
 まあ、そんなこともあるよなと流していた。
 しかし、中学校はまだ義務教育だ。サボっている生徒がいるとなると心配されるんじゃないだろうか。まあ、方便の連絡くらいはしているかもしれないけど。
「どうやろ」
 投げやりに少女はそう言った。どうやら連絡もしてなさそうだ。
 遅ればせながら、少女の言葉に訛りが混ざっていることに気付く。西……関西か四国か中国か九州か、あそこらへんの訛りはわかりやすい単語が混じってでもない限り、生粋の東北人には全部同じに聞こえる。
「…………」
 どこ出身? と問うのはもしかしたらクリティカルな質問になる気がして、私は腕時計に目を落とした。十二時の少し前だった。
「……お腹減らない?」
 これは踏み込みすぎだ、そう思った。思ったけれど、口が勝手に言葉を続けた。
「お昼くらい奢るよ」
 この時節に、見知らぬ子と会食。普通に怒られる。誰にかはわからないけど、きっと怒られる。
 でも、もうお昼だ。本当なら給食を食べている時間だ。ガチャガチャこそ回していたけれど、そうたくさんのお小遣いを持っているタイプにも見えない。お昼代なんて持ってないか、もう底を尽きているんじゃないだろうか。
 女子中学生は明らかに警戒心を顔に出した。
「……久しぶりだからさ、誰かとお昼を食べる機会」
 思わず方便を言っていた。
 女子中学生は、渋々といった感じでうなずいた。

 私達はパスタ屋に入った。
 私はカルボナーラ。女子中学生はたらこパスタ。ランチセットなのでサラダとスープ付。
「私のマスクダサいじゃないですか」
 運ばれてきたパスタを前に、ガーゼマスクを外しながら、女子中学生は唐突にそう言った。
 ガーゼマスク、平型マスク、呼び方は色々あるけれど、私が子供の頃はこれ一種類しかなかったような気もする。とはいえプリーツ型やら立体型やらバリエーションがある昨今では、それをダサいと切り捨てる感性が中学生にあるのも仕方ないことのように思えた。
「そう?」
 マスクを外して食事をしようとする時に、わざわざ話を始めるというのもどうかと思いながら、私も立体型マスクを外す。サラサラとした肌触りのそれは口紅がつかないので重宝している。
「そうですよ。それが学校サボった理由ですもん」
「…………」
 若い頃には色々ある。あると言ってもそれは私にはなかなかに予想外の理由で、返答に詰まった。
「えっと……マスクがダサいからいじめられてるの?」
「いじめられているというか……イジられているというか」
 彼女はちょっと困って見せた。
「なんかこうイジメのステレオタイプってあるじゃないですか。シカトとか、物隠されるとか、水かけられるとか」
「うん……」
「そういうのはないんですよね、あ、もちろん暴力も、暴言も、ないんです。ないんですよ、イジメとか。ただよくわかるんよ。……ああ、うち馴染んでないなって」
「…………」
 遠回しな、ねちっこい、明言されるわけではない、しかし確かにそこにある気付き。
 感じるのが忠告ならともかく、そこに感じるのが疎外であれば、その苦痛は、嫌悪は、忠告の時の比じゃないだろう。
「……元々口調でもイジられとったし」
 少女はわざとらしく訛ってみせた。
「なんというか、疲れた」
 私はカルボナーラの半熟卵を割りながら、それをただ聞いていた。

 かける言葉がなかった。
 だけどそんなことは最初からわかっていた。

 私は通りすがりに物事を解決できるようなスーパーヒーローじゃない。
 子供の相手を生業にしているわけでもないし、中学校どころか高校をサボったこともない。優等生の皆勤賞だ。
 いじめられたこともないし、いじめたことも多分ない。いじめをスルーしたことなら、ある。
 子供もいないし、姉の息子の甥っ子はまだ三歳でさすがに不登校になる年齢でもない。
 甥のことは、このご時世なので幼稚園入園を一年遅らせようかと姉が悩んでいた。
 いけない、思考が脱線した。
 そう、だから、今日はここに髪を切りに来ただけの、会社すらサボらない私が、この子に言えることなんて、きっとないのだ。
 ないから、沈黙。黙々とカルボナーラを口に運ぶ。
 少女も別に私が魔法の一言ですべて解決してくれるとも思ってなかったのだろう。特に期待も落胆もしていない顔でたらこパスタに手を伸ばした。
 しばし、黙食。
 半熟卵が跡形もなくなって、お皿にこびりついたカルボナーラのソースをすくい取るためのパンを注文するかどうか、迷いながら、私はセットのスープを飲み干した。
「えーっとね、大人の義務として、やっぱり私は中学校に連絡を入れる義務があると思うんだよ」
 などと今更のように大人としての義務を振りかざした。
「だから別に絶対行けと言いたいわけではないんだけど……別に絶対行きたくないわけでもないんでしょ?」
「……はい」
 少女は素直にうなずいた。
「行きたくないから行かなかったけど、死ぬほど行きたくないわけじゃないです……行かなかったらどうなるかなって興味レベルのやつ」
「うん」
「……でも、このまま一生行かないかもしれないし、明日になれば自分バカだったなって普通に中学行ってるかもしれない。明日のことは、わからないです」
「うん、そうだよね……」
 会話が止まった。困ってしまった私は勝手に自分の話をする。
「ちなみに私は自分の明日のことはわかる。家から出ない」
「そうなんですか」
「リモートワークだからね。今日買い物済ませちゃえば、一週間くらいは家から出なくて済むかな」
「そんなにですか」
「ひとりぐらしの家に大容量の冷蔵庫があるとそんな感じ」
 そう言いながら私は店員さんに向かって手を挙げた。パンを注文する。
 ふと私達は何に見えてるのだろうと思う。
 アラサーと十代半ば、さすがに母子には見えまい。年の離れた姉と妹……あるいは伯母と姪あたりだろうか。
 まさか通りすがりにガチャガチャに集って縁ができただけのふたりだとは思われないだろう。
 あまりに堂々としているせいか平日の昼間に制服を着た少女がいても何らかの問題を疑われたりはしていないようだ。
 これで誘拐の疑いとかかけられていたら、人生が終了だった。
 私がそんなことを考えてるのを知ってか知らずか、彼女は今度は自分から口火を切った。
「……お姉さんは、なんで、私に声をかけてくれたんですか」
 かけてくれた、か。余計なお世話に悪い感情は抱かれていないらしい。
「カプセルを拾って、シュシュを拾われて、縁を感じだから、かなあ」
「そんなことで? たったそれだけで、こんな面倒そうな人間に首を突っ込んだんですか?」
 まったくだ。
 そんなことを無視できる自分であれば楽だったのに。そもそもガチャガチャのカプセルが足元に転がってきたことすら無視すれば良かったのに。
「まあ、野次馬根性ってやつだよ」
 いい人になりたくなくて、私はまた嘘を言っていた。
 正直、彼女のサボりの理由なんてどうでも良かった。
 意味もなく日々のルーチンを崩したくなるときくらい誰にでもある。
 ただ、まあ、たとえばその理由が世を儚んでしまいたくなったとかでは寝覚めが悪いと、そういうことをほんのりと懸念したのだ。たぶん。
 人が案外簡単に死ぬことを、私達はここ最近でよく知ってしまったから。
「野次馬でも……放っておかなかったのはお姉さんだけですよ」
 彼女はそう言って薄く笑った。
 それがポジティブな感情からくる笑顔なのか、ネガティブな感情からくる笑顔なのか、私にはわからなかった。
 私には結局、この昼食の間、少女のことなど何一つわからなかったと言ってもいいだろう。

 デザートに私はプリンを頼んで、女子中学生はアイスを頼んだ。
 それを食べて、マスクをつけて、お財布を出そうとする少女を制しながら会計を済ませ、お店を出て、私達はそこで行先に迷った。
 ここで別れてしまうのがきれいなのだろう。
 できれば、そのまま彼女には中学校に向かってほしかった。
 大人としての道義心とか、そういうものを満足させるのはそれが一番丸い。
 しかし、さすがにそこまで利己的なことを言い出す気にもなれなかった。
「……お家は? 家族いるから帰りにくい? 鍵持ってる?」
 聞きたいことは要するに家に帰るか中学に行くかだったが、そういう回りくどい質問をした。上司のわかりやすい回りくどさにはとうてい及ばないな、と胸中苦笑する。
 マスクでくぐもった声は、彼女にちゃんと届いていた。
「……家族はこの時間いません。ひとりっこです。鍵は持ってます」
「そっか」
 なら、行き場がないということはないのだ。
 それなら少し安心する。
「まあ、なんだ、あるか知らないけど、最低、門限までにはお家帰りなよ、どんくらい怒られるかわかんないけど」
「はい……」
 少女はうなずいた。
 たとえそれが方便でも、少女がうなずいたならそれでいいかと、私は彼女に手を振った。
「じゃあね」
「さようなら」

 ショッピングモールに入っているスーパーに向かう。シュシュの代わりの髪ゴムをカゴに入れる。そしてメモを見ながら、食料品を入れていく。生活のための買い物。
 それを終えて、私は家に帰った。まだ午後二時だった。

 翌日、リモート出勤で朝礼をする。
 私の髪型が変わったことにはカメラ越しでも同僚上司たちは気付いた。私に注意をした上司も、微笑んでいた。
 いつもの業務を淡々と終え、そして時計が十二時を回った。
 お昼休憩。皆それぞれの方法で昼を取る。
 私は料理をする日とコンビニに行く日が半々くらいだった。
 だけど今日の私は、家を出たがコンビニにも向かわなかった。
 私はショッピングモールに向かっていた。
 レストランコーナーより先に、私はガチャガチャコーナーに足を向けていた。
 そこには、昨日の彼女がいた。
「こんにちは」
 私は迷わず声をかけた。
 少女の肩がビクリと跳ねた。
 手からカプセルがこぼれ、音を立てて床を転がり、私の足元まで至る。
『カフェの動物第三弾』のカフェラテリスだった。
「どうぞ」
「……どうも」
 カプセルを受け取って、少女は気まずそうに私から目を反らす。
 今日の私の髪をまとめているのは髪ゴムだから、シュシュみたいに滑り落ちたりはしない。
「今日もお昼、いっしょに食べる?」
「……そこまでご迷惑かけられません」
「そっか」
 彼女は今日も中学をサボっているらしい。
 何事もなかったように中学に行く方を、彼女は選べなかったようだ。
 私はかける言葉がなくて、とりあえずガチャガチャに向かった。
『忍者×食器』シリーズに足を向ける。その前でしばらく迷う。
 結局やめた。
 やめて私は、昨日スルーした推しがいるガチャガチャに足を向けた。
 二百円。百円玉を二枚入れる。ハンドルを回す。
 コロンと落ちてきたカプセルの中をうかがうと、推しの色がそこにあった。
「お、当たり」
「……おめでとうございます」
「挑戦してみるもんだね」
「…………」
「じゃあ昼食じゃなくてさ、買い物行かない?」
「え?」

 初期の頃とは違う。マスクはもう在庫が復活していて、在庫どころか新製品も並んでいる。
 向かったのはスーパーでも薬局でもなく雑貨屋だ。
「あんまりガラガラしいのは校則違反かな?」
「……初期の頃は、手に入りにくいからそういうのなかったので、今もマスクの柄は校則では定められてないです」
「じゃあ、好きなの選んでいいよ」
「…………」
 少女はしばらく雑貨屋のマスクコーナーで佇んだ。
「……お姉さんのそれは、どれですか」
「お」
 どれだろう。適当にネットで買ったやつで、パッケージのデザインももう覚えてはいない。
「これ……が一番近いかなあ」
 値段帯と雰囲気でそれを選ぶ。
「じゃあ、これ買います。さすがに奢ってくれなくて大丈夫です」
「そっか」
「…………」
 少女はマスクを手に取り、しかしすぐにはレジに向かわなかった。
 彼女が向かうのに任せる。私は口も挟まずに、ただついていく。
 彼女が向かったのはシュシュコーナーだった。
「シュシュ買うの?」
 なるべくフラットな言い方で、聞いた。そのつもりだった。
 だけど少女は頬を赤く染めてうつむいた。
「…………」
 少女はマスク以上に時間をかけて、シュシュを選んだ。
 ようやく彼女はレジに向かう。

 買い物を終えて、彼女は私の目をまっすぐ見た。
「……これ、あの、これ、わりと滑りにくいやつなので」
「え」
 包みに入ったシュシュが私に手渡された。
「行きます。中学、行きます。もう行きます」
「……無理しなくていいんだよ?」
「大丈夫です。いや、大丈夫じゃないけど……大丈夫になりたいから、行きます」
 そう言うと彼女はマスクを付け替えた。
「……行ってきます」
「……給食、間に合うといいね」
「そうですね」
 彼女が笑ったのが、マスク越しの顔でもわかった。
 私は包みを開け、髪ゴムをほどき、シュシュを髪につけた。鏡はなかったけれど、多分大丈夫だと思った。

 私達は二度と会わなかった。
 それはよいことだと、私は信じた。

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