暗譜をめぐる喜怒哀楽

 今回は「暗譜」をテーマに書いてみようと思います。「暗譜」とは何か一応説明しておくと、曲を暗記して楽譜を見ずに演奏することで現在西洋クラシック音楽の世界では非常に広く実践されている慣習ですが、これに苦しんだ・苦しんでいるという意識を持っている音楽家も少なからずいることでしょう。そのため今までに多くの人が自分なりの「暗譜のコツ」や「暗譜法」を発信していますし、そもそも暗譜という慣習に従わせる圧力を無くしていくべきなのではないかという議論もときどき見られるものです。

 実際、歴史的に言えば暗譜は19世紀に器楽奏者(特にピアニスト)の「パフォーマンス」として流行ったものが慣習化したようで、それ自体に音楽にとって本質的な意味は無いというのは極めて真っ当な意見でしょう。ただしオペラ歌手については、劇の役者でもある以上暗譜することが絶対に必要です。また現実的な話として、器楽奏者が楽譜を見て弾くと両手が塞がっていて自分で楽譜をめくれない場合があり、「譜めくり」というアシスタントが必要になる可能性が高くなります。特にピアノなどの多段譜はその分紙面を要するため、めくるのが頻繁かつ多くなりますから、譜めくりの補助はほぼ必須になるでしょう。演奏会ならば謝礼を出して譜めくりをお願いすれば良いですが、学生の試験やコンクールなどでもいちいち譜めくりを雇うというのは現実的なことではありません。もっとも、何箇所か記憶に自信の無い部分の楽譜だけを置いておく、といった手はありそうです。

 このような消極的な理由によって暗譜が支持される一方で、暗譜のプロセスを通じた学習上の意義を見出だし積極的に支持する考えがあります。曲を完全に覚えてしまうぐらい隅々までよく理解しているとか、勝手に身体が動いて曲を弾けるぐらい繰り返し練習しているとか、そういうことに価値を見出だすわけです。ちなみに今例に挙げたうちの前者を「頭の暗譜」、後者を「手の暗譜」や「身体の暗譜」などと我々はよく言います。この両者は全く別々のものではなく、相互に関連し補い合うものでしょう。

 まあこんな高説を聞かされたところで、現に暗譜が義務付けられている試験やコンクールのために暗譜しなければならない場面は多々あり、「完璧に暗譜する方法」をさっさと知りたいんだよ!という人もいることでしょう。もちろん残念ながらどういう方法を採ったところで完璧を保証することはできません。特に本番で緊張しているときにはイレギュラーなエラーが起こるものであり、「暗譜が飛ぶ」=ど忘れすることは往々にしてあります。ひとつ前提として重要なのは、「頭の暗譜」と「身体の暗譜」のどちらもおろそかにしないことだと思います。一瞬次の音が分からなくなっても染み付いた指の動きで乗り切れるということはよくありますし、逆に事故的に手が変な場所に動きそうになっても頭で正しい音を分かっていれば冷静に軌道修正できます。

 その上で特に問題になりがちなのは、「頭の暗譜」をいかにするかということではないでしょうか。率直に言いましょう:これは「とにかく気合いと根性で全ての音を丸暗記!」という人より、理論的・分析的に音と音との連関を把握しながら楽譜を読める人のほうが有利でしょう(まれに丸暗記が非常に得意であっという間にできる人もいるものの)。それに分析的に曲を理解していくことは、前述の「暗譜のプロセスを通じた学習上の意義」に合致しています。要するに良い勉強になります。本来は暗譜の義務があろうとなかろうとするべきことですが、暗譜の必要によってより強く動機付けられうるわけですね。

 個人的には、丸暗記のための珍奇な工夫——例えば乱数で出た数字の小節をパッと弾く、など——に走ることはお勧めできません。そしてまずは全体を大雑把に覚えることです。曲の冒頭から順に細部を覚えにかかって、覚えている区間を段々長くしていく、というやり方も一定の人気があるように思われますが、私はあまり好みません。始めに粗い解像度で曲を頭の中にインストールし、徐々に解像度を精密にしていくイメージ。このためには必ずしも「暗譜の練習だから楽譜を置かないでやる」のではなく、楽譜を見て弾きながらも自分が「次に音楽がだいたいどうなるか」を理解しながら弾いているかどうか、ということを意識してみる柔軟さも必要です。

 更に言えば「譜読み」の段階から、曲の全体の流れを把握したり分析的に理解したりすることは有意義であり、その点から譜読みと暗譜は実は並行して進められるものです——まず譜読みの段階というものがあって、それが完了して初めて暗譜に取り掛かる、ということではなく。究極の理想は譜読みが一通り終わった時点で暗譜もあらかた完了している、というパターンですが、実際にはこれはなかなか難しいです。譜読みについては(気が向いたら)別な機会に書くとして、今回はここら辺までということで。お読み頂きありがとうございました。

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