率直に、ソルフェージュって何だ?

 私は現在東京芸術大学の修士課程の「ソルフェージュ研究分野」というところに在籍しているわけですが、「ソルフェージュとは何か?」という質問をよくされます。そこで今回はソルフェージュについて、専門的に西洋クラシック音楽(以下単に「音楽」)を学んでいない人にも理解されるようできるだけ平易に——その代わり厳密には不正確な点も生じるおそれがありますが——説明を試みたいと思います。ある程度以上に高度に音楽を学んでいる人にも役に立つ部分があるかもしれません。

 音楽の中には様々な技能があります:演奏・作曲・指揮、とりわけ演奏は更に各種の楽器の扱いや声楽の技能に細分化されます。例えばピアノを弾くのとヴァイオリンを弾くのとでは求められる身体運動の技術は全く異なるでしょう。しかし一方で、音楽家ならば基本的に全員が共通して理解しておくべき知識・持っておくべき認識というのがあります。それは例えば音程の認識や、五線に書かれた音符の読み方等の事柄です。より抽象的に言えば、書かれる諸記号の規則や、音楽を構成する様々な要素。これらを体系として解釈したものがソルフェージュだと考えられます。

 このことからソルフェージュは言語における文法にも喩えられます。ここで念のために強調しておきたいのは、「文法」そのものと「文法学習」の方法とが異なる階層の問題であるように、「ソルフェージュ」そのものと「ソルフェージュ学習」の方法とを混同してはならないということです。高度な音楽教育を受けた人の中には「ソルフェージュ」と聞くと「聴音」(演奏された旋律や和声作例を楽譜に書き取る)や「視唱」(初見の旋律を歌う)といったことを——しばしば苦々しい気分で——思い浮かべるかもしれません。聴音と視唱はほとんどの音楽大学や音楽科の入学試験で課されているため、試験対策のためにこの二つを重点的に演習するというのは広く見られることです。しかしこれらは本来あくまで「ソルフェージュ学習」の一つの方法にすぎません。とはいえ試験として用いるとソルフェージュの習熟度を測るためにある程度機能することも確かです。

 それにそうしたソルフェージュ学習のためのトレーニングは、実際に演奏や作曲に臨む際の予行演習になりうることもまた確かです。例えばあなたの頭の中に突然素晴らしい音楽が鳴り響いたとき、それをすぐに楽譜に書き留めることができなければせっかくの宝物を獲り逃してしまうかもしれません。例えば——あなたがピアノ弾きだったとして——声楽の友人から夜に突然楽譜が送られてきて「明日この曲を伴奏してくれない?」と懇願されたとき(音楽大学ではよくあることです)、素速く譜読みできる力があれば心強いでしょう。

 聴音・視唱の演習を軸としたソルフェージュ学習に対しては批判もあります。特にそれが入試のための「傾向分析と対策」である場合には。入試の聴音・視唱はその目的上、露骨に難易度を上げるために複雑にされた、音楽的には美しくない課題を出すことがあります。演習でそのような課題にばかり取り組んでいると、非常に不愉快な気分になる人が出てくるのも不思議ではありません(ただし逆にパズル感覚で楽しいと言う人もいるので、人それぞれではあります)。不愉快なだけならまだ良いのですが、音楽の本質から離れた無機質なトレーニングのように思われ、「正直できるからどうということはないし、できないからどうということもないと思うが、試験のためにやらなきゃいけないもの」に堕ちてしまうことが問題です。ましてや音楽大学に入学した後も必修の「ソルフェージュ」の授業で受験勉強の延長戦のような演習をやらされたなら、全くバカバカしくなってしまうかもしれません。本来なら音楽をより深く理解するためにソルフェージュを勉強するはずが、非音楽的なものの象徴のようになってしまうのは大いなる矛盾です。そもそもの目的を見失っています。

 トレーニングの目的化という問題はソルフェージュの「本場」であるフランスで1960年代から70年代にかけて大々的に提起され、議論され、改革が実行されました。この改革されたソルフェージュ教育はフォルマシオン・ミュジカル formation musicale(音楽的形成)と呼ばれ、日本でも90年代以降音楽大学の授業での導入の動きが活発になりました。フォルマシオン・ミュジカルの具体的な内容については気が向いたらそのうち書くと思いますが、背景ではルソーやモンテッソーリ等の思想に共鳴する、最近で言えばアクティヴ・ラーニングと通じるもので、実際に音楽作品に出会い・解釈し・演奏するという一種の問題解決のプロセスを強調するものだと言えるでしょう(少なくとも私はそう理解しています)。

 フォルマシオン・ミュジカルに対しては、逆に知識や技能の定着がおろそかになってしまうのではないかという批判・懐疑も根強くあります。また本来フォルマシオン・ミュジカルは導入期(早期教育)から高等教育に至るまでの時期に実施することにこそ意義があると考えられていますが、日本では前述の通り主に大学が実践の場になっています(だからといって全く意味が無いわけではありませんが)。入試問題のスタイルは従来から変わらない聴音・視唱のままで、その傾向分析と対策としてのソルフェージュ学習はいまだに主流ではないでしょうか。

 更に根本的なこととして、日本ではソルフェージュの早期教育自体がそれほど一般的とは言えないのも事実です。もちろん小さい頃からピアノやヴァイオリン等の演奏を学習する中でも(特別な事情がない限り)楽譜の読み方は教わるので、「ソルフェージュ」という言葉は知らなくても部分的には触れているのですが、きちんと体系的に幅広く学んだ人は少数派だと思います。この状況に関して私はあえて「良いか悪いか」ということを言うつもりはありません。音楽を学ぶ人それぞれに事情があり、目的があり、楽しみ方があり、それは尊重されるべきです。それに文法を意識して学ばずとも流暢に言語を操れるようになる人もいるように——それは無意識に学び取ったとも言えるわけですが——、ソルフェージュを意識して学ばなかったからといって絶対に優れた音楽家になれないわけでもありません。そして遅く学び始めたからといって完全に手遅れということもありません。何にせよ我々ソルフェジストはソルフェージュを学ぶ全ての人がより良く学べるように、研究を重ねなければなりません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?