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生まれた時から宮﨑駿

僕の名前は宮﨑駿。

この名前といえば、誰もが映画監督のあの人を思い浮かべるはず。おそらく存命の日本人の中で、全世代対象とした知名度調査なら5本の指に入るであろうこの人のことを。ちょっと前までは「宮崎駿」表記だったのに、なぜか最新作から「宮﨑」に変わっていたので、最近はより一層寄ってしまった。

この名前の異変に気がついたのは高校に入学した時。一人ひとりの自己紹介が終わったあと、クラスで最初にあだ名が決まった。「お前はやおじゃん」と。

僕が住んでいた街では小中学校が1つずつしかなかったので、小学校入学から中学校卒業まで同じ顔ぶれで、同級生たちはあの人を認識するより先に僕と出会っていた。その結果「僕の名前があの人と同じ」ではなく「あの人ってお前と同じ名前だよな」という間違った認識を持ってしまっていた。そんな環境で過ごしてきたので、僕自身もあの人のことは認識しつつ、自分の名前の特異性には気がついていなかった。

だけど、高校には市内中から人が集まってきていた。僕と出会う前にあの人を認識していた人からすると、この名前に対する印象は完全にジブリだった。あだ名が速攻で決まったのも、今思えばそりゃそうかって感じ。当時の僕は、新しく出会った同級生たちの反応を見て、やっと自覚した。

世間の現実を知った高校生の僕は、名付けの経緯を両親に聞いてみた。曰く「生まれてすぐ入院することになり、そのために名前を急いでつけないといけなかった。それぞれがいくつか候補を出してみたところ、お互いに駿があったからつけた。」とのこと。「宮﨑駿になってることには後々気がついた。偶然偶然」とも言っていた。

偶然と言い切るにはさすがに無理じゃないか?本当に意識していなかったとしても間違いなく頭の中のどこかにあの人の名前があったから、2人ともこの名前が候補に上がったんだろう。僕が生まれたのは1996年。ラピュタは1986年、トトロは1988年、紅の豚は1992年。すでに日本を代表する映画監督になった後だ。

僕と同い年の人で、大谷翔平だったり、橋本環奈という名前の人がいたとしたら、年齢的にもそれは全くの偶然。だけどこの名前を偶然と言い切るには無理がある。何度か問い詰めてはいるが、まだ口を割らない両親。僕は三兄弟の三男坊。長男は「○太」次男は「○介」そして三男は「駿」だ。あまりにも脈絡がない。三番目ということもあり、遊び心が生まれたんじゃないかと推測している。

ここまでこんなことを書いておきながら、実はこの名前をつけてもらって本当に良かったとしか思っていないくらい、めちゃくちゃ気に入ってる。

まず単純に「駿」という漢字と「しゅん」という読みが好き。馬編もかっこいいし、苗字1文字2文字名前1文字のバランスも好き。

そしてなんと言っても、圧倒的な名前の知名度。大抵の人が、僕と出会う前からこの字面を認識しているので、名乗ると距離感がなんとなく縮まってくれるし、すぐに顔も覚えてもらえる。特にフリーランスになってからは、名前の恩恵を受けまくってる。どれだけ名前を覚えてもらえるかが勝負の世界で、この名前はかなり強い。

僕の名刺の表面には、フルネームだけが堂々と漢字で書かれている。この名刺を渡すと、95%は反応していただけるので、そのまま柔らかい雰囲気での雑談に持っていける。名刺を渡すだけでグッと距離が縮むってほどではないけど、少なくとも初対面の相手に対して立てられている一番外側の壁は取っ払ってもらえるくらいの効果がある。

この名前を授かって唯一困っていることといえば、ジブリ知識への期待。少年漫画道を突き進んできた自分にとって、ジブリは少し難解だったこともあり、正直あまり詳しくなれなかった。

子どもの頃にうまくジブリの世界に入り込めなかったので、大人になってからも金曜ロードショーでやってたらぼーっと見るくらい。先日、10数年ぶりに千と千尋を全部観たけど、一番印象に残っているのは千尋走りのシーンだった。あの走り方で階段を降りきる身体能力には憧れたし、翌日の犬の散歩の時に真似してみたりもしたけど、きっとあの物語が伝えたいことはそこではなかったはず。

なんなら一番好きな映画は「君の名は。」だもの。あの作品は好きすぎて、15回くらい観てる。

そんな僕なので、ジブリが好きな人から熱量を持って語り合おうとされたり、ジブリに関する深い質問をされたりすると困ってしまう。とはいえ、この名前をネタにしてもらえるようになってから10年以上のキャリアがあるので、そういった場合の交わし方も板についたものになってきている。

キラキラネームなんて言葉が生まれたり、「横浜流星」というとんでもなくかっこいい名前の人もいたりするなか、この名前がここまで他人から興味を持ってもらえる要因としては、「宮﨑駿監督」という絶妙な人物と同じ漢字であること、そして読みだけは違うということだと思う。

読みまで全く一緒だとあまりにも感が出てしまうし、うちの両親も言い逃れはできなかっただろう。そして、僕の名前が「小栗駿」だったら、そのハードルを越え続ける人生は、今よりもハードなものになっていたかもしれない。

でも僕はあの宮﨑駿だからこそ、ここまで自分の名前を楽しんでこられた。もちろん、あの人を馬鹿にしているなんて気持ちは一切ない。この時代の代表的な人物として歴史に残るだろうし。誰も真似できないことを成し遂げた人だと思っている。だけども、やっぱりなんかちょうどいい、絶妙な人だとも思ってる。

この名前をつけてくれた両親にはあらためて感謝の気持ちを伝えたい。そしてこの名前をつけた本当の理由をいつか聞き出してみたい。僕の弟として我が家に来たトイプードルに「ゴロー」と名付けた両親に。

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