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後数ヶ月で独立して5年が経つ

この期間と言うのは、自分の中では圧倒的に心身共に苦しい事が殆どだったと感じている。

しかし、その状況に結果的に自分を追いやったからこそ、獲得出来たことやより高水準な領域に入る兆しを掴めた事は真実ではなく、事実。

最初の頃は過剰な過負荷に耐えられていない自覚があったが、徐々にそれが心地良くなって来て、今は寧ろそれがある事で生きている実感を得られて充実感も高まる。

確かに、たまに美味しいものを食べたり、遊んだりする事で幸せを感じられて楽しいのは私の中の真実である事は間違いないのですが、心身に染み渡る刺激的な高揚がない事も然り。

だから、臨機応変に対処しながらも、己の信念、理念、ポリシーを微塵も捻じ曲げる事なくこれからも邁進し続ける。

私が求める究極の完成形態は飽くなき創意工夫、試行錯誤、前言撤回、取捨選択、凡事徹底を積み重ねる事でしか徐々に又は急激に近づけない確信がある。

そして、目指す先に対して無限に高まる事はないのは明白であるが、無極でもあると言うのが本質且つ現実だと想う。

だから、私にとっては不必要な所謂こうあるべき論は全て蹴散らす。

他人や他集団からしたらそうではなくても、私から観たら傷の舐め合いや低水準の褒め合いを含む仲良しクラブの性質が強い環境に居続ける義理はない。

そう言った仲良しクラブの動態は厳しい客観的尺度で測ると非常に低レベルな自己効力感及び自己肯定感を己に植え付けてしまう。

しかし、そう言った事も考慮且つ受け止めて容認しなければならない側面が少なく共一理ある事を理解している。

その理由の一部は、その人や集団にとっては精一杯やっているつもりなのかも知らないので、そこがその人たちにとっては史上最高地点である事が挙げられる。

実態として、最低限の時間の労働を低密度でこなして大した成果を生む事なく、それ以外の時間とエネルギーを自己研鑽に微塵も注ぎ込む事なく、それとは関係のない趣味を含めた遊びに浪費してのんびりした生活をしていたとしてもです。

各個人の自分なりに一生懸命の努力全てを容認して肯定すると言う事はそう言う事ですよね。

私の本心として、それら全てを安易に微塵も肯定する事はできないが、それをしないと成立しない事情がそこら中に転がっているのが世の中の構図。

だから、自分なりに頑張ると言うのは、少なく共質と量と密度において玉石混交且つ千差万別である。

しかし、私はそう言った外的要素及び要因に流されて負の影響を受ける事なく、意図的に自己ブレーキを踏む事をせずに、全開の自分を大切にしてくれる人をより大切にしたいし、そう言った人に大切にされる人であり続けたい。

多数派が賛成する事に意図的に寄せればその層からの同意は間違いなく得られるでしょう。

しかし、それをする事で賛成を得られない人や集団も現れてしまう。

結局は全員から好かれて賛成を得る事は出来ないのならば、自分のやりたい様に私はやる。

自分に対して好意的に思ってくれる人が多い少ないの差は私にとってはどうでもいい事。

最近、ある人に人間は自分が正しいと思っていると言われたが、それはあなたの単なる先入観だなと感じた。

私は人間が不完全な存在であることをある程度は理解しているので、自他共に過大に期待も信用も期待もしない。

何故なら、個人差はあれど高低の波は少なからずあり且つその波は一定ではないのが実態だから。

だから、多少は期待や信用や信頼を置く事はあったとしても、多角的視点に素にした様々な尺度を用いてその都度出される結果に比重を重く置く。

肩書きや実績があるから優秀且つ強者なのではなく、その都度実際に優秀且つ強者だったからそれらが付随したに過ぎない。

そして、過去や現在においてそう言ったものに本当に値する者が未来永劫そうであるとはまるで限らない。

今回の最後になりますが、これに限らず私の発信内容はあくまでも私見に過ぎず、絶対的な正義ではない且つ皆さんの受け取り方次第ではありますが、強要するつもりは微塵もない事を強調しておきます。

それではまたの機会に。

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