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夢遊病

 嫌な夢から目が覚めた。夢の中で僕は顔の分からない人間を殴りつけていた。何度も何度も「やめて」と懇願する赤の他人を、容赦なく力を込めて殴り続けた。理由は分からない。誰かを殴る理由など恐ろしくて考えたくもない。

 ベッドから体を起こしリビングへ向かう。リビングでは妻が朝食をテーブルに置いているところだった。食パンにスクランブルエッグ、そしてコーンスープ。いつもの朝食がそこに並んでいた。僕は妻と顔を合わせると「おはよう」と挨拶を交わし、朝刊を手にして椅子に座る。その時、僕は妻のある異変に気付いた。彼女の左腕に痛々しい痣ができていた。昨夜までこんな痣は無かったはずだ。

「その痣、どうしたんだ」

 僕は気になって聞いてみた。

「ああ、これ? ベッドから落ちちゃったのよ。大袈裟な痣ができちゃって」

 そう言って妻は笑みを浮かべた。僕はその言葉を信じて、その痣についてはこれ以上聞かないことにした。

 僕は朝食を食べ終え、会社に行く支度を済ませて家を出た。会社には行きたくないと思いながらも、その思いをぐっと我慢して歩を進めた。

 僕は中堅の広告代理店で営業職として勤務している。給料は平均的で福利厚生は充実している。待遇面に不満は無い。しかし、僕は直属の上司との関係に強いストレスを感じていた。上司は営業課長で、仕事が出来ると社内ですこぶる評判の良い男だ。しかし、部下からの評判は非常に悪い。女性社員に対して甘く、男性社員に対して厳しくあたる。特に僕に対する風当たりは強く、威圧的な口調で毎日罵られる。罵られるたびに胃がきりきりと痛み出す。

 僕は忌避感を抱えながら、会社に入り自分の机に鞄を置いた。すると、それまでスポーツ新聞を読んでいた課長が突然僕を呼び付けた。僕は嫌な予感を抱えつつ、課長のデスクへ向かう。

「お前、今月の営業成績についてどう思う?」

「どうって言われましても……」

「ノルマに全然達してねえんだよ。もっと死ぬ気になって契約取って来い! まったく、使えない奴だなお前は」

 月曜日の出勤直後、いきなり社員の前で課長に怒鳴られる。こんな事は日常茶飯事だ。僕はいつものように課長に頭をぺこぺこと下げる。それでも課長の怒りは収まらず、「もう良い、お前と話すのは時間の無駄だ。戻れ!」と大声で怒鳴り散らした。僕は課長に言われるがままに、自分のデスクに戻った。隣のデスクに座っている先輩社員は「気にするな」と小声で慰めてくれるが、気にしない方が無理な話だ。胃がきりきりと悲鳴を上げ始める。体は正直だ。

 営業で外回りに行く前に、僕はトイレへ駆け込んだ。常備している錠剤の胃薬を取り出し、出勤前にコンビニで買ったミネラルウォーターとともに口の中へ流し込む。

「あのクソ上司、いつか殺してやる」

 課長に対する憎悪を口にしながら、僕は鏡に映る自分の顔を眺めた。自分でも分かるくらい、ひどくやつれた顔をしていた。

 ハードな残業を終え、僕は家に帰ってきた。玄関のドアを開けると、妻は温かく僕を迎えてくれた。課長から受ける仕打ちも、家に帰ってくれば少しは忘れさせてくれる。この時だけが、僕が幸せに感じることが出来る瞬間だ。鉛のように重い体をリビングのソファに落とす。ソファが高級なそれのようにふかふかに感じられる。これ程までに気持ちよく感じるのは、よっぽど疲れがたまっている証拠なのだろう。

「大丈夫? あなた、疲れたような顔をしているし、目が死んでるわよ」

 妻は僕の顔を見るなり、心配そうな顔で聞いてきた。僕は彼女に心配をかけまいとして、大丈夫、と少し無理をして返答した。妻は半信半疑な顔をしながら、ラップに包まれた夕食を運びにキッチンへ向かった。

 僕は食事と風呂を済ませたら、すぐに睡眠を取ることにした。最近妻との時間を確保出来ていないことに申し訳ないと思いながら、僕は掛け布団をかぶって眠りにつこうとする。しかし、いつまで経っても眠ることが出来ない。疲れが溜まっている体は眠りを欲しているのに、何故か眠れない。早く寝たいという焦燥感が、余計に僕から安眠を遠ざけた。何度もベッドの近くに置いてある時計を確認し、睡眠時間が刻々と減っていることに焦りと苛立ちが募っていく。

 僕はいつ眠りについたのか分からない。けたたましい目覚まし時計が朝を告げ、僕はアラームを止めた。どうやら、いつの間にか眠りについていたようだ。でも、体のだるさは取れないままだった。

 寝室を出てリビングへ向かうと、妻がいつものように朝食の配膳をしていた。僕も彼女を手伝おうと思い、皿をテーブルに置く。僕はまた皿を運ぼうと妻を見た。妻の腕を見て僕は思わず目を疑った。左腕の痣は昨日よりもひどくなっており、青痣が至る箇所で見られた。さらに、左腕だけでなく右腕にも同様に多数の青痣が出来ていた。

「大丈夫か? ひどい痣じゃないか」

 僕は妻がとてつもなく心配になり声をかけた。

「大丈夫よ。何度もベッドから落ちちゃったみたいで。どうしたんだろう、私」

 妻は昨日のような苦笑を浮かべる。でも、その顔は素人目でも分かるくらいやつれていた。

「全然大丈夫じゃないだろ。早く病院に行った方が良い」

「大丈夫だから!」

 妻は突然声を張り上げた。滅多に声を張り上げることの無い彼女が取った想定外の行動に、僕は呆気にとられた。妻はその事についてすぐさま謝ったが、小声で「大丈夫だから」と繰り返した。

「このポンコツ! まともに契約が一つも取れないんだったら辞めちまえ。この役立たずが」

 課長は自分の机を激しく叩きながら僕を怒鳴りつける。ここまで課長に毎日怒鳴られると、彼は僕を罵倒することが趣味なのではないかという可笑しな考えが頭をよぎるようになる。僕はぺこぺこと頭を下げて、すぐさまオフィスを出る。毎日同じことの繰り返しで、頭を下げるのは慣れたものだ。謝罪だけなら、この課では誰にも負けない自信がついてきた。もっとも、こんな事は誇れるものではない。

 同じような怒られ方をしたことがあるなという謎のデジャブと断続的な胃の痛みを感じながら、僕は外へ出ようとする。すると、同期の男性社員が僕を追いかけてきた。課長が呼んでいるとのことだった。まだ罵り足りないのかと憂鬱になりながら、課長の待つオフィスへ戻る。

 課長が僕を呼び付けた理由は、妻が突然倒れたという連絡を彼女の妹からもらったからだった。課長は妻が運ばれた病院へ行くよう僕に促した。僕はその言葉に甘えて、急いで病院へ向かおうとした。

「お前の奥さんも大変だな。こんな無能な男と結婚して。奥さん、見る目無いんだな」

 その言葉を聞き僕の足が止まった。課長本人は冗談のつもりで言ったらしく、言葉を発してから笑い声が聞こえてきた。僕の中で、張りつめていた糸がぶちっという音とともに切れた。

 歩を止めていた足は来た方向へ戻り、再び課長のデスクの前に立った。僕が戻ってきたことに、奴は不思議そうな顔をしていた。

「死ねよ」

 僕は無意識にこの言葉を発し、その勢いで課長の顔面を右腕で殴っていた。課長は座っていた椅子から転げ落ち、無様に床へ倒れた。僕はそのまま馬乗りになり、課長の顔を何度も殴りつけた。課長は暴言を吐きながら抵抗しているが、衰えた体を力で制することは容易いことだ。無心になってひたすら殴打をすることで奴の顔は腫れていき、唇が切れていた。

 散々罵っていた課長はそれをする力が無いのか、しだいに「やめてくれ」と何度も懇願するようになった。僕はそれを無視して、ひたすら顔面にパンチを浴びせる。すると、課長の懇願する声がいつの間にか妻の声に聞こえるようになった。僕は気のせいだと思い、殴ることを止めなかった。

 僕が殴っていた相手は課長ではなく妻だったと知ったのは、窓から陽射しが差し込み始めた朝のことだった。寝室の隅で、妻は顔を腫らした状態で動かなくなっていた。顔を殴りつけた両手が真っ赤に腫れ、痛みがじんじんと残っていたことが、僕が殴ったという証拠だった。課長を殴ったあの出来事は、単なる夢だったのだ。僕は動かない妻を見ながら、がっくりとうながれた。

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