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他人が書いたスクリプトの流れが読めた時のような感情。

新年明けましておめでとうございます。

去年一年間は
初めてと言っていいぐらい真剣にずっと
・自分の深掘り
・今まで生きてきた自分の棚卸し
をしてきた。
下記に書く2つのことがずっとうまくいっていないからだ。

一つは
本当にどうしたいのかという思い。
収入も時間も仕事の量も
自分で決めたいと
ずっと思ってきたにもかかわらず
何事にも踏み出せず
同じところをぐるぐるしているから。

もう一つは
人に好かれたいという思い。
表面上は楽しくコミュケーションできるのだけど
なぜか後々しっくりこなくなるというローテーションを繰り返していると気づいていたから。

結果、
・時間も費用も気にせず、自分の好きなタイミングでいつでもどこにでも行けるんだという感情が欲しい
・笑いあえる仲間がたくさん欲しい
大きなこの二つが今ワタシが認識できた
大元の気持ちなんだと思う。

こういう書き方をしたのは、
まだどこからか違う思いが湧いてくるかもしれないからだ。

そして、
この二つに何が共通しているのかと問うてみた。
自分で考えた結果は

「安心」
「信頼」

ということだと思った。

世の中で自分も含めた殆どの人が
引き寄せたいと思っているものは
そういう感情を味わうための
「ツール」の部分であって
よく言われる「本当の思い」というのは
何をやりたいか(ツール)より、
どうしてそれをやりたいと思っているのか(前提)だいうことだ。

棚卸した経緯を簡単に書くと、

・やりたいこと
幼稚園の頃は特になりたいものはなかったように
記憶している。
幼稚園のアルバムには「看護婦さんになりたい」と書いた絵が貼られているが
理由は近所の診療所にかかった直後に
それを書く機会があったためで、
特になりたかったからではない。

そろばんを小学校からやっていた。
合っていたようで習い始めてしばらくすると
段位をとれて暗算も得意だった。
それがきっかけで商業系の高校にいくことを
小学生から決めていた。
他の選択肢は頭になかった。
(その頃、潜在意識の法則は知らなかったけど、
ちゃんと「行き先だけ決める」に沿っていた)
そして中学生まではそろばんの先生になろうと思っていた。
高校になるとずっと好きだったアイドルに夢中になり、やってきたそろばんへも気もそぞろになって
東京に住むことばかり考えるようになった。
それしか考えてなかった。
これも決めた通りになった。

・他人とのコミュニケーションについて
ワタシは内気な子供だった。
幼稚園でも、先生に自分で用件を伝えることができず、母に伝えてもらっていた。
みんなとなかなか打ち解けられず、
さみしかった記憶がある。
それがいつからかちゃんと伝えられるようになった。
でも、嫌われたくないっていう思いは抱えたままだった。

内気が直ると、
いろいろ自分で話しかけられるようになった。
その反面か
中学、高校でも敵ができるようになった。
人と話せるようにはなったけど、
自分が理解できたりできることに対して
それができない人に遭遇すると
できないことに腹が立ってしまうのだ。
けど、嫌われたくないから
直接は言わないにしても
内心(前提)は
「なんでこんなこともわからないんだろう」と
思っているから自然に下に見るような態度になってしまっていたのかもしれない。
言い回しで誤解を受けることも多かったように思う。

この自分が上に立ちたいというのはどこからきたのか。
探って行った結果、心からの思いではなく
「前に立つことが良い」
「人より抜きん出ることが良い」
という教育もあったからだと思う。
それを素直に自分の中に植え込んで生きてきただけかなと思っている。
目立ちたい(=褒められたい)とは思っていたと思うけど、進んで問題を解決するために前に立つとかではなかったから、何かしなきゃいけないと感じつつも何もしないことを選ぶタイプだった。

こんな感じで深掘りしていった。

そして気づいた。
・やりたいと思っていたこそろばんは
ワタシにとって「うまくできること」且つツールでしかない。
・人に好かれたいと思っていたけど
そもそも欠点て治す必要があるのか?

そんな時、これをいっぺんで解決するヒントが来た。
ニシキ(錦織一清さん)が
昔から演劇のことを時々話す中に
人間の感情に関するこういったワードを使うことを思い出した。
そこに気づき始めた途端、
ニシキの言葉のそういう部分だけが
殊更すごく入ってくるようになった。
そして今、意味がすごくわかるようになった。

ワタシの中で、
「演者つまり演劇をする人」の認識は
1つ、素の自分が在って
その上に持っている着ぐるみ(パターン)を
身につけていって舞台に立つ(引き出しをつくる)んだと思っていた。

それは今までの認識と逆だった。

「演者つまり演劇をする人」とは
着ぐるみをかぶって(引き出しを増やす)いくのではなく、
これまで何枚も被ってきた
(生きてきた中で必要だと思ったし、実際必要だった)着ぐるみを脱いでいくことだった。

結局ずっとニシキの言ってることを
理解していたつもりになっていただけだった。
彼はつかセンセイの影響を受けているから、
そこからまたつかセンセイの本も読み直してみた。

ワタシはココロとか潜在意識の
本に助けを求めていろんなモノを読んできた。
そのせいか、ずっとわかってるつもりだった。
けど、それと同様で演劇の本当の意味を理解しきれていなかったということだ。

潜在意識関連
こちらの本たちも今年、読み直してみてあらためて
「そう言うことを言ってたのか!」とわかったとどこかで書いたと思う。

そして
演劇が価値観(潜在意識)を変えるのにも有効なことに気づいた。
感情の開放をすることで、
今まで身につけたモノを取っていく。
そうすると中に眠っている本当の自分が出てくる。
つかセンセイのおっしゃっていたこともそうだ。

そこを理解してから
またいろいろ興味を持って調べてみると、
イッセー尾形さんの演出をされていた
森田雄三さんを知った。
残念なことにもうお亡くなりになられている。
お二人ともご存命のうちにまだ質問できる可能性があるうちに知りたかったけど
これがワタシのタイミングなんだ。
仕方ない。

森田雄三さんは独自の演劇WSをされていて、
そこで話されていたことが
つかセンセイやニシキが話していることと
ワタシの中でカチッと符合した。
ここでタイトルに戻る。

「他人が書いたスクリプト※の流れが読めた時のような感情」

※スクリプトとはひょんなことに脚本のことも指している。
ワタシの場合はコンパイルせずに実行できるプログラムの意味で書いた。
テキスト(メモ)に書いたプログラムをクリックするだけで中に書いたプログラムが実行できるといえばわかってもらえるだろうか。
例えばバッチファイルとかである。

自分が書いたスクリプトならフローはわかるけど、
他人の書いたスクリプトは、読み解く必要がある。
その人の考え方とセンスが表れているから。
それを修正するなら、殊更全体の流れがわかっていないと修正できない。

ワタシが悩んできた2つのうまくいってないことに対して、ニシキがくれたことがtriggerとなって、
演劇ワークとつながっていると知った時、
上記のタイトルのような感情が起こった。

素直にこういうことしたいなと思った。
価値観を換える、思い込みを換える。

そして
どうしてそれをやりたいのか?と問うてみた。
自分が悩んできたこと。
「こういうツールを使って同じように悩んでいる人に自分がでできるよ!という機会を提供したい」
これが目的だった。

そう考えるとそろばんもツールとしてあるかもしれない。
自分が得意なことは使えばいい。
けれど、それだけに拘る必要はないのだ。
目的が合っていれば。


森田さんのブログにて
「!」となったものを貼ってみます。
もし、何かの誰かのtriggerになれば。

「新年に当たり、自分の「良い人ではない所」を見つけ出し、そうせざるを得なかった己を、優しく労わってやりましょうよ。よくぞ生きてきたと。
 自分で自分を慰める事が、他人の「悪さ」を「良さ」にひっくり返す事だと思う。
 愛情とは「相手の欠点の受け入れ」なのです」
上記ブログ より
やりたいことというのは現状を嘆くための道具にすぎないのです。
やりたいことは見つけてもらうと思ったほうがいい。
言葉を換えると親しい人の「やりたいこと」を見つけてあげればそれが自分のやりたいことの発見につながる
人生は、なんとかなるものである  より

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