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散歩に還る

「私たちが最後に帰るべき場所は、一体どこにあるだろう?」
大学の卒業制作でつくった映像で、最後に流したその言葉のことを今でもよく憶えている。
なぜあの時、そんな言葉を使いたくなってしまったのか。
“最後”というのは、一体いつの、生きているうちの最後なのか、それとも死してなお続くかもしれない永く大きな営みの、その終わりを思ったのだろうか?

帰ることを考えたとき、その気持ちはいつもなんとなく新潟へ往く。
自分が小中高と暮らした町の、田と田のあいだに蛇みたくうねる道のことや、夕闇のなか道なりに灯された電灯の思いがけないうつくしさなどが、そこを歩いた無数の記憶によって鮮やかに呼び覚まされる。あざやかに、といいつつ、それは視覚的にというよりも、自分がそこにいたという質感の確かさとして、なのだけど。
(聴覚的に、むしろ視覚よりありありと思い出されるのは、真冬の雪の中の、しんしんとした音だろう。雪に覆われた町の広がりの中で、夜、どこか遠くからぼやけた車の走る音がきこえる。自らの脈拍や鼓動、一緒に散歩している犬の呼吸など、それらはいつにもまして生温かく、確かなような気がしたものだった)

週明けに高熱が出てから、丸三日は布団からろくに出られなかった。
四日目の夜になってようやくひとり散歩に出ると、そもそも帰省してからの習わしであったはずの近くの散歩にすら、今回はろくに行けていなかったことに気がついた。
七月の温い空気が心地よい。北海道にいる間に忘れ、そろそろ慣れてきたと思っていた新潟の湿度の高さが、この時になってようやく自分の肌に馴染んだようにも感じられた。
いや肌に、というよりはおそらく、魂に。
夕闇のなか、まるで幽霊みたいにして、田と田のあいだの道々を泳いだのだった。

✳︎

「人生に必要なものはふたつ、歩くこと、そして詩だ」

長田弘が「最後の詩集」に編んだこの言葉に、かつて自分はずいぶんと救われた思いがした。
当時守りたいと思っていた大切な人の、思いがけない排他性に触れたとき、そしてその排除の対象にしっかり自分の一部も含まれていると気づいたとき、どうしようもなく悲しかった。それは根底に、「唯一の光」なるものを信じようとしない自分が、「唯一の光」を信じて生きているその人の、つくりだしたもののもつ強度に途方もなく打ちのめされてしまったことが原因だった。
今となっては、どちらの生き方でもそれはそれだと思うことはできる(じっさい「唯一の光」を信じるというのは、ずいぶん人間くさいものでもあるなと思う)。とはいえ当時はその痛みの切実さのあまり、自分が信じるべきものを確かめられる何かを欲していたのも、また事実だった。

歩くこと、そして詩。
ここ数年、長らく自分が呪い(まじない)のように誰彼ともなく発していた、「根を持つことと翼を持つこと」ということから解き放たれるための一つのきっかけとして、いまこの言葉を試みに据えていく。
自分が根と翼ということを思い巡らすなかで一つ不思議に思ったのは、どちらもそれが人間にはない、ということだった。

歩くことを思うとき、かつて養護学校で働いていたときにいつも側にいた、車椅子の生徒のことをまず思う。
二足歩行が不可能であったとしても、彼もまたやはり「歩く」。車椅子を自ら操作することで移動する、車椅子を降りて手や膝を使って床を這う、ということのみならず、周囲の人々のサポートによって移動するときでも、それが彼の足であろうとなかろうと、彼の感覚をとおして世界が触知されるとき、やはり「彼」は「歩く」のだと、そう思う。
歩くことの原形がまずそのようなところにあることをたしかめたうえで、僕もまた世界を「歩く」。足をとおして、手をとおして、鼻を目を口を、皮膚を髪を、ときに枝を、ときに流木を、ときに鉛筆をとおして歩く。
歩くとき、身の回りの風景や光景は変化する。もちろん風景や光景は歩いていない時にも変化する。けれど歩くことで山や海との距離が少し遠くなったり近くなったり、歩くことによってしかならない仕方で、その様相に変化が訪れる。これは歩くことのもたらす、大きなものだと思う。

詩。詩は、詩のことはいつもどう言葉にしていいのか、よくわからない。
思うに、あると感じられること、ないと感じられること、そのどちらにせよ感覚することの始点に、いつも詩はかかわっているのだと思う。
詩がまずそのようなところにあることをたしかめたうえで、僕はときにことばの詩を読む。ときに詩を書く。ときに歌を歌う。こうしてどこへも行きそうにはないが、自分にとっておよそ大切だと思える言葉たちを編んでゆく。自分と世界とが繋がれた交歓の記憶として、田と田のあわいを泳いだ記憶として。これも詩の所業かもしれないと思う。

ここまで見てきたうえで、僕にはどうやら、歩くことと詩の、ふたつの違いを詳らかにすることはさほど重要でないように思える。そして本当に重要でないのだろう。
むしろ大事なのは、そのどちらかではなく、どちらもがあること、二つあるということだ。
僕はこれが一つでなくて本当によかった、とあの詩に救われた当時強く思った。一つだけだったらきっと苦しかっただろう。その思いは今もあまり変わらない。

新潟の地元の道々は、自分をいつもどこか解き放つ。特に夜の道。
それはたぶん、生きていてこの道をもっとも多く「歩いた」からであり、詩の気配もまたそこに無数に香るように感じられるのは、知らず知らずのうちに、この道々を歩くなかで世界と自分との密やかな繋がりに幾度となく存在を肯定し、ここにいることをうれしいと思えた記憶が無数にあるからなのだろう。

それはいつだって生きるうえでのなんらかの標であった。何かにつまづいたとしても、いつでも帰っていける場所のひとつだった。
最後に帰れる場所はどこになるかはわからないけれど、いつだって帰ることのできる場所も(もしかして、その方が?)重要なんだと思う。

新潟の地元に事限った話ではないのかもしれないと、最近なんとなく思う。「全世界をふるさととすること」。本に書かれたようにはいかなくても、様々な場を行き来しながら生きる自分にとって、世界との繋がりを感じられた場所と時間は確かに幾つもあった。そのときの自分の在りようを信じ、その時と場ごとに還っていくこと。その途方もない繰り返しのなかで、人として生きていることの揺るぎなさを、ますます獲得していければいいなと思う。ときに幽霊になりながら。

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