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外部依存の恐怖

先日ひょんなことからあるセミナーに運営側として参加した。そのイベントではこれから起業をしようとしている人が、その業界の大御所的な先輩にノウハウやコツなどを質問し、それに対して先輩が回答をして解決策を得ると言うものだった。

そこで僕はなんとも形容しがたい恐怖を感じたのである。
参加者の多くは業界への新参者であり、知識をそんなに多く持ってはいないということはわかる。しかし彼女たちがする質問の多くは、セミナー中も彼女たちが大切そうに握っているその小さな機械で簡単に調べられそうなことばかりなのである。

これは僕自身がこの業界にある程度精通しているからだろうか。もちろん全体像を把握した状態でないと見えない部分もあるのだろうが、それにしても偉大なグーグル先生の力を借りればわかりそうなものではある。

このようなモヤモヤとした疑問を感じながら、時間の有限性を意識して聞いていると、稚拙に聞こえる質問にはパターンがあることに気付かされる。
そのパターンとは、Aという物事はなにかという、What的な質問である。これはこのようなセミナーではたちの悪い質問だ。事前に調べておくべき基本知識であり、講師と他参加者の時間をいたずらに奪ってしまう。
セミナーや勉強会に参加する際には、事前知識として少なからずAという物事について簡単にでも理解と思考を深めておき、その先に繋がるA→A'の繋がりや、Aを用いた応用技術などの質問を用意するべきではないだろうか。

そしてさらに話を聞いていると、そういった単純な質問をする参加者ほど独立願望や開業願望が強いのである。こういった大きな夢を達成するには、技術的な問題以前にあらゆる問題が立ちはだかると考えられる。それを解決する際に、足りない知識を取り入れようとする自主性と思考力がその程度で大丈夫だろうかと心配にさえなってしまう。

セミナーが終わってからも僕の頭の中に残るモヤモヤを整理してみると、それは恐怖だということがじわじわと分かってきた。それは外部依存の恐怖だ。

答えは外にあると考える人たち

今回のセミナーの話では自分の中に不足している知識を自ら取り入れようとする自主性と思考力が足りない人が多く見受けられたが、これはそのような行動を起こすよりもセミナーで講師や他参加者に直接聞いた方が遥かに楽だし、簡単だからだと思う。これは自身の中への問いかけや追求を行う作業を避けて外部へ依存していると考えられる。

他にも僕の周りには、自分を変えたいという動機で突然引越しや転職をする人がこれまでも数人いた。環境を変えることで、生活様式や思考内容がある程度変わることはあると思う。しかしこれも一種の外部依存と考えられないだろうか。自分を変えるのであればまずは自身の思考方法や精神状態と向き合い、深掘りを行うべきである。物理的な移動をしたところで、自分からは逃げることはできないし、結局は同じようなことで悩んでいる人が多い気がする。
明言しておきたいのは、決して現状の辛い環境から脱出しようとしている人を否定したいわけではない。一旦逃げることはとても大切だ。しかしもっと大切なことはその先にあるということである。

はたまた「彼がいないと私はダメかもしれない。」と言っている人も見るからに外部依存である。彼がいなくなったら本当に君はダメになるのだろうか。きっとそんなことはない。君はまた違う男を捕まえて同じセリフを吐くだろう。この場合は対象は不特定多数だが、異性という大きなくくりに外部依存している。

このように外部への依存先は、他者の知識、環境、人など多岐に渡るが、外部依存をしている人と僕が話しているときに感じるのは恐怖心だ。なんというか自分の足で立ち上がれていない動物のようで、油断していると自分もそちら側に行ってしまうのではないかという不安による恐怖だ。

そんな恐怖を払拭するために、今日も僕は本を読み、走るのである。
答えは常に自分の中にあると考えている。

本当は自己啓発本を読み耽っている人に関しても記述したかったのだけれど、表記文字にすると僕の中の黒いモヤモヤの部分が出すぎてしまいそうなので割愛する。気になる方はカフェでコーヒーでも飲みながら音声情報でお話ししましょう。

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