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沈黙に関する美しさについて

大通りに面する階段をトントンと地下に降りた先にあるその小さなバーは、まだ夕方にもかかわらず賑わっていて、奥のテーブルには観光でこの街を訪れたたような黒人のグループがテーブルを囲みグラスを傾けていた。

あの日はたしか土曜日だったから、満席で入れなかったからどうしようかなどと密かに思っていた。彼女とは隣を歩いていたはずなのに、通行人のあまりの多さに縦並びに歩いたり、はぐれて距離が空いてしまったりした。それでもいつの間にか彼女は他の人が気づかないくらい僕の僅か斜め後ろをついてくるのだった。

タイミングが良かった。階段に最も近いテーブル席に通された。この店は長く続いていて、僕も幾度となく訪れたが、なぜかいつもこの席に通される。バーカウンターに面しているこの席は、人の出入りを多く見ることができる。バーテンがシェイカーを振っているのも、慌ただしく動くウェイターも、激しく出入りするお客さんも、全てがよく見える。ここは僕のための席なのだ。他の誰のものでもない。

ウェイターからメニューを渡されたが、それは普段僕が受け取るものとは違っていた。時刻はまだ16時で、色とりどりの名前のカクテルがたくさん載っているメニューが渡されるには早すぎた。それでもカフェメニューの端っこにはアルコールメニューが書いてあって、僕はジントニックを、彼女はコーヒーウォッカのロックを頼んだ。テーブルには灰皿が置いてあり、僕らはどちらがいうともなしにタバコを取り出した。

彼女は普段から電子タバコを吸っていたが、僕と会う時には紙タバコを好んだ。僕がタバコを巻いていると、彼女はそれを物欲しそうに眺める。しかし僕は彼女が聞いてこない限り、タバコを渡すようなことはしない。気持ちを察することはできるが、その後の行動にまで反映させてしまえば関係のバランスが崩れることを僕は知っている。

この日彼女とは映画の話をした。ここに来る前に、2人で映画を見てきたのだ。彼女の映画の見方はとてもユニークで。それはまるで彼女自身が映画の中に入り込んだような見方だった。

会話の中には少なくない時間の沈黙が存在した。しかしそれは居心地悪くは感じなかった。この世界には2つの沈黙がある。街中で久しぶりに出会った仲良くもない知り合いに出会ってしまい、お互いに気づいて声をかけたはいいものの、何を話せばわからないようなタイプの沈黙と、彼女のような人と面してお酒を飲みながら迎えるタイプの沈黙だ。

彼女との会話は楽しいと思う。多くの場合、その内容はお互いの仕事の話だが、自分の世界にはないような話をたくさん聞くことができる。それはまるで本屋でたまたま手に取った旅行本のページをめくっているみたいだ。

しかしそれ以上に僕は沈黙を得るために彼女と話したいのではないかと思わずにはいられない。彼女との間に生まれる沈黙はそれほどに居心地が良く、僕は許されたような感覚に陥る。そのような時間に僕が思うのは、きっと彼女も同じようなことを考えているのではないかということだ。

だがそれは僕の勝手な思い込みに過ぎないかもしれない。彼女はその時間を気まずいと思っているかもしれないし、早く帰って自分の作業を進めたいと思っているかもしれない。きっとその作業というのはとても重要なことで、それは僕との時間よりもはるかに優先度が高いかもしれない。

例えそうであっても、それでもなお僕は彼女との沈黙を望んでしまう。一般的に考えると、それはおかしいことなのかもしれない。女の子と映画を見た後にバーで過ごす時間は、大抵の男なら会話が弾む様に頭を巡らせたいして面白くないトークを繰り広げ、適当に女の子を酔わせてホテルに誘う。まあこんなものだろう。

もちろん僕にだって性欲はある。でも僕は肉体的に彼女と繋がるのではなく、沈黙で繋がりたいのだ。それほどにまで、彼女との沈黙は魅力的だった。

彼女が小さく息を吸い込む音が聞こえる。次に彼女はなにを話すのだろうか。そしてその後の沈黙はどれほどにまで優美だろうか。そんなことに思いを馳せてしまう。

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