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『正法眼蔵 全 新講』を捉え直す その2

南直哉先生の著作から、納得のいかない部分を解釈し直してみたい。
(195から196ページ)

「黄檗禅師が言った」

「時間を忘れ話し合う」
「時間を忘れ没頭する」
「時間の中にいたとしても、時間に縛られはしない」

「何者にも依存しないのじゃ」
「時間を忘れた時には、何者にも依存しないのじゃ」

「縁起としての仏性がきらめいておる」
「時間と空間を超えた真実がそこにあるのじゃ」

「この『時間』、人の時間なのじゃろうか」
「別宇宙の時間じゃろうか」
「白銀世界の時間じゃろうか」

「この世界じゃろうが、別世界じゃろうが、何者にも依存しないことなのじゃ」
「時間を忘れることが、肝じゃ」

「もう夢中になっていると申すか?」
「ならばお主、何者にも縛られておらんな」

 正確な訳はこうである。

 二回生の時、一限から語学の授業があった。前日の夜、時間を忘れて高辻と遊んだ。印象的な日だった。

 僕は真面目で、翌日語学があると遅くまで遊ばなかった。超絶美人に「ずっといて欲しい」と言われた時すら、「明日語学だ」と帰った。 

 高辻と話した日は、授業があることを忘れていただけだ。

「こんな充実するのかよ」
「一限が眠くもていいわ」

 「ありがとう」とメールをもらった。冗談でなく、仏性がモンテベルテ8の高辻の部屋に充満していたと思う。

 道元は時間を守るのでなく、時間を忘れろと説く。ここに新時代の鍵がある。

 南先生の解釈が極めて興味深い。

「なにものにも依存しない行為が、時間を作り出して構成する」

 すなわち、時間制限の中で行動するのでなく、没頭さえすれば時間を作り出せると言う。驚くべき話だが、まだ見えてこない。

 マルクスは資本論で「現代人は時間をカネに変え、商売している」と語った。時間がかかるものが高価で、かからないものが安価だと。時給を想像すると分かりやすい。

  我らは時間を作り出すことを忘れ、先人が作り出した時間をただ浪費してしいるのかもしれない。

 南先生は続ける。

「存在を行為が生成するなら、存在は時間的でしかあり得ない」


 解釈したい。

 すなわち、人間は行動により測られる。人は行為し時間を生み出すことが重要だ、と。

 なぜ行動は時間を生むのか。南先生の論を見て意味を掴もう。

「それは時間の中に何者かが存在するという意味ではなく、行為においてものの存在が生成されることが、すなわち時間の現成なのである」


 解釈したい。

 人は通常、時間の中であれこれをするが、それでは時間を消費するだけに終始してしまう。行動し縁を紡ぎ、自身を作ってゆくこと。それが時間を生成することだ。

 自分を作りあげる時間は、僕が高辻と話した時間、夢中で縁を作る時間。縁は時間を育てる畑。

  エフェクチュエーションのサラス・サラスバシーは、「マーケティングや経営戦略はパイを奪い合うことばかり考え、パイを生み出すことを忘れている」と述べる。「市場は人間関係と同義」とも。

人間関係を作らずパイを奪い合うだけの経済は、世界を世知辛くしてしまった。童話『モモ』の時間泥棒のような人ばかり増え、労働者を買いたたき、僕らから時間と人間性とを奪う。

 ハイデガーの『存在と時間』に触れざるを得ない。時間についての記述は第二編から始まる。僕はまだ途中までしか読んでいないから、残念ながら解説できない。

 だが、おそらく南先生の論で進められている。ハイデガーの概念「ダーザイン」は、道元の「仏性」、南先生の「縁起」に極めて近い。

 奥出直人先生に『デザイン思考の道具箱』という名著がある。「名詞でなく動詞をデザインしろ」と書かれていて、1年ほど格闘している。

 南先生の論を借り、解釈を試みたい。

 「夢中を生み出す枠組みを作り、縁と自身を練り上げろ」

 怒られてしまいそうだが、間違えたら修正して進めばいい。

「時間を忘れることこそ、時間を生み出すことだ」

道元はそう語った。これを書いた時間はそれができていた。

僕は生意気だけど間違ってなかったんじゃないか。そう思った。

時間は命だ。人が生きるための。

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