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無意味な世界で意味あるものを



介護職員ならおそらく一度は経験した、もしくは耳にしたことがあるだろう。認知症のある方の周辺症状といえるものに、頻回なトイレの訴え、というものがあることを。
多い人で5分に1度の訴えがあるのではないかと思わせるくらい、執拗なこともある。
そこまでして、彼らの伝えたいことはなんなのか。

対応は対処療法的になりやすい。話を逸らす。興味関心のあるものを提供する。何か食べてもらう。できる限り訴えにそって誘導する。だが、トイレにお連れしても多くの人は出たり出なかったりといったところではないだろうか。

ここで1つの仮説を立ててみる。
彼らは今目の前にいる世界と自分との繋がりが見い出せていない。ここは一体どこで、どうして自分がここにいるのか。考えれば考えるほど、迷路のような思考の渦の中に入り込んでいってしまう。そうすなると自分は抜け出せなくなるのではないか。その狭間で幾度となく葛藤を余儀なくされている。何もわからない、無意味で孤独な世界の海に漂うことになる。

そんな時、唯一意味のある世界が自分にはある。
それが彼らにとってトイレだったのではないか。

トイレで便座に座っている間は、やることは1つだ。自分の排泄に意識を向けるだけ。そこで本当に出るか出ないかはその人にとって重要ではない。自分はどこで何をしているのかわかる、それが拠り所となっているからだ。

だから対処療法的な対応が空回りしやすいのではないだろうか。本当のニーズは、自分が理解できる意味ある世界の中に在ることだから。

あるおばあさんはトイレとフロアへの誘導を繰り返し要求していた。トイレへの頻回な訴えに加え、ベッドへの臥床、そしてすぐに離床の訴え、そのための頻回なナースコールに職員たちの疲労はピークに。おばあさんの混乱もますます深まっていった。


そこでユニット会議を行い、話し合いの結果とった対応とは、おばあさんに1人つく、というものだった。ユニットで、さらに人手不足の中、正気の沙汰じゃないだろ…という職員の空気を感じつつも、現状これしかないという苦肉の策だった。というのもおばあさんは誰かが傍にいると頻回なナースコールや訴えは消失していたからだ。誰かが傍にいる、自分の言葉に応答する人がいる。世界の中で孤独の海に投げ出されないために、おばあさんが意味ある世界にいる唯一の時間だったのかもしれない。


結論から言えば、おばあさんは落ち着いた生活を取り戻すことが出来た。1人つくという対応を行う前に。
元々そういうタイミングだった、といえば簡単だ。だが、僕はそう思わない。
恐らくだが、カッコよくいえば職員たちの覚悟が決まったからだろうか。仕方ないよね、おばあさんのためだ、という職員の思いが、言葉や表情などの中に無意識のうちに現れていたのではないだろうか。
その無意識が、言語を超えておばあさんの孤独の海に届いた。無意味だと思っていた世界に、傍にいてくれる人がいるという意味ある世界になった。そうは言えないだろうか。

実際のところはどうかわからない。エビデンスとして確立するわけでもない。ただおばあさんは訴えが減り、笑顔の時間が増えていった。それでいいのではないか。

あなたの目の前にいるおばあさんも、もしかしたら意味ある世界を求めているかもしれない。どうかほんの少しでも、その混沌に付き沿う覚悟を。
だって、仕方ないしね。

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