清潔になっていく町
ジムの帰りに、少し寄り道したりする。
昼の暑さがこれでもかと残る真夜中、自転車を走らせれば幾分かマシになるかと言えばそうでもない。
家に帰りたくないというわけでもなく、単に夜の町が好きなだけだった。
地元の商店街。
昼は賑わいをみせ…ということもなく、少しずつ寂れていくのがわかる。高校生の時に訪れたゲーセンはオシャレな美容室にかわり、たまり場の一つのファストフード店は、綺麗なカフェへと変貌した。
その先の十字路の角に、異様な空間が存在していた。
花壇や植木鉢が並んでいて、そこに多種多様な人形が、およそ百体以上飾られていたのだ。
大きさも大なり小なり様々で、仮面ライダーや戦隊モノ。怪獣たちが道行く人々を威嚇していた。
実はその空間が少し好きだった。いや、好意というか、少しワクワクするような、昔を思い出すような、そんな気になるのだ。
地元ではちょっと有名で、近所のおじさんが並べていることがわかった。時折訪れては、増えていく人形を確認して、胸が踊った。
ある日のジムの帰り道。その空間が綺麗さっぱり消えていた。駅に直結するマンション建設工事のためだろう。人形達は姿を消した。
迷惑に思っていた人もいるだろう。景観を損ねる不気味さに、商店街の人たちも困っていたのかもしれない。正しい手続きに乗っ取り、苦渋の決断で、合意の元であったと願いたい。
不気味を排除したい潔癖な社会
時折町に顕れる、周囲とは馴染めない空間を目にしたことがある人は多いだろう。自分たちの想定されない事態を巻き起こしかねないその空間は、忌避され排除の対象となる。コントローラブルな空間だけが、取り巻く環境としてのその存在を許される。
だが、それが果たして本当に良いことなのだろうか。
不法行為を見逃せ、ということではない。ただ、不気味さを失い、全て既知なるものだけで埋められた環境に、仮にイレギュラーが起きた時、その対応を迫られた際に僕らがとれる行動は何か。
通り一辺倒に排除を繰り返せば、その社会は先細り、清潔だと思い込んだものしか残らない。その清潔さの根拠はすぐに揺らぐ羽目になる。コロナ禍がそれを証明した。その清潔さも、解き明かせば不潔で触りたくないものであったり、解き明かすことの出来ない、謎が謎を呼ぶような不気味まものかもしれないのに。
そもそも僕らは自分たちの身体さえ未知なるもので溢れている。腸内細菌などその全貌は全く分かっていない。
人の身体含め、世界は不気味そのものだ。それらをひとまず括弧にいれ、その存在を受容しておけば、仮にイレギュラーなことが起きたとしても、余力を残して対応できそうなものだが。
ただの寄り道で、世界のことにまで思いを馳せるなんて馬鹿げているが、それも夏の暑さのせいにしよう。
不気味な人形たちは、きっとどこかで同じように蒸し暑い夜を過ごしているはずだ。
人形たちの暮らしていた場所は、数ヶ月もすれば綺麗で煌びやかなマンションへとなっているだろう。
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