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僕らの仕事



この時期どこの事業所も研修に躍起になっているだろう。食事介助の学びとして実際にご飯を食べさせてもらったり、オムツ交換を交代で行ってみたり、認知症ケアについて学んだり。そのレパートリーは様々である。だが、肝心要であるその事業所の理念について語られることは少ない。
理念といえば仰々しい感じがするが、つまりうちはこのことを目的に、このような目標を掲げ、こんな方針でやっていきます、という方向性を示すものである。

なんだそんなこと当たり前ではないか、と思うかもしれない。しかし、それが当たり前でないところが介護業界の課題である。明確な目的も共有せず、現場に送り出された新人たちは、まずは業務の流れと手技を中心に教わる。無論それらは大切なことに変わりないが、その流れを把握し、素早く行える人が仕事のできる人、という判断基準を与えられてしまう。より効率よく行うために、画一的なケアにお年寄りをはめ込み、そこから逸脱していくであろう認知症老人たちを邪魔者扱いし、どうにかコントロールしようと過度な制限をかけていく。


「いつもは一時間かかるところを、四十分で終わらせた」

方法論だけを与えられた者たちは、その手技をもって如何に早く業務を遂行するかということに価値を見出し、ステイタスを感じるようになるのだ。果たしてここに、「その人らしい生活」など存在するのだろうか。

ずっと寝たきりだったおじいさん。施設への入居をきっかけに、トイレに座り、普通のお風呂に入り、ゆっくり食堂で食べる、という当たり前の生活を実現していった。すると当然次第に元気になっっていった。

「運動してくるわ!」

フロアの散歩も日課になり、その姿を見た奥さんは感激の涙を流していた。

これこそ僕ら介護職が目指すべきところなのだ。だが、おじいさんは以前の生活ではそうなっていなかった。寝たきりを強いられ、厄介者扱いとなり、当施設へ入居となっている。その以前の生活というのは、同じ施設形態でのことだ。

つまり本来同じような目的を掲げる介護福祉施設であるにも関わらず、おじいさんの生活は真逆の道を辿っていたということになる。これが理念が如何に大切なのかを物語っているとは思えないだろうか。

自分たちがどれだけ優れているかということを自慢したいわけじゃない。しかし、おじいさんのような、誤解を恐れず言えば、「簡単なケース」でさえこのザマなのだ。ただ当たり前を当たり前に大切にするということの大切さが、まったく共有されていない。

くどいようだが方法論は提示されている。いの一番に習うのだ。だが、それをどうやって、何のために使用するかという目的が定まっていなければ、おじいさんの二の舞になるケースは一向に無くならない。


僕たちは多くの技を持っている。それを携わる人の生活を支える道具とするのか、生活を奪う道具とするのか。問われているのはその目的だ。なぜこの人にこのような介護が必要なのか。考えることをやめた時、僕らの技は容易にその人を傷つける刃物になりうる。


何のために僕らはいるのか。僕らの仕事とはどういうものなのか。一緒に考えていってほしい。僕らは考える杖なのだから。

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