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私という存在についての疑問

注意: 自分の頭の中を整理するために書いたものなので、煩雑でいつも以上にまとまっていない。

定期的に自分の思考に浮かんでくることがある。自分の努力とか、自分で選択するとかいうときの自分とは何なのだろうということだ。
自分で決めたことのハズだけど、それは過去の積み重ねによって生まれた意思決定であり、はたしてそこに自分自身、私というものが存在するのだろうかと疑問に思う。
おそらく運命論や決定論などについて詳しく調べればもっと詳細度を上げられるのだろうが、億劫なのでまだやっていない。頭に同じ疑問が浮かぶたびに学ばねばと思って止まっている。
生まれてくるという選択自体自分で行っておらず(本当は主体的だったりするかもしれないがそこはわからない)、そこから遺伝だ、環境だとありとあらゆる状態が受動的だ。そして気がつけば主体的であることを求められる。私の疑問は、ここでの主体的であるということが、本当に主体的なのであろうか、というものだ。受動的の積み重ねが、いつから主体的にあれるのだろうか。

主体的というのは、辞書で引くと「活動の中心となるさま。自主的。また、主体に関するさま。」というようなものが出てくる。自分の意思で意思決定を行っていくというふうに捉えることができるだろう。
先程も述べたが、ここで問題なのが、自分の意思が、果たして自分の意思なのかということで、自我など存在しないのではないかということだ。
受動的を繰り返した先に、存在する私自身という主体があるが、これを主体と呼べるのか。

私は原始仏教が好きだ。(ただし、こちらも不勉強であまり詳しくはない。)仏教では、無我というものがあるが、この無我というものはまさしくそういう主体的な私が存在しないということを述べていると思う。

我々は、あらゆる関係性によって存在しており、実体というのは存在しない。仏教用語にカルマ(業)というものがあるが、これは善悪関係なく行為、活動を表す言葉だ。カルマが次のカルマを生み、それが連鎖する。そしてある人が死んでも輪廻転生という形で、カルマは続いていく。カルマ同士の関係が存在しているだけで、そこに実体はない。ないが、そこに実体をあるように感じているだけなのかもしれない。
色即是空なんて言葉もあるが、これも同じようなことを意味しているのかしら。空の思想といえば、ナーガルジュナ(龍樹)が想起されるが、こちらも全然未学習だ。(昔「龍樹」というそのままの本を買ったが、2ページで諦めてしまった覚えがある。再挑戦したい。。。)

長々と自分の感じていることを書いていたのだが、少し調べただけで以下のようなものがでてきた。

インド哲学の正統派では、業は輪廻転生の思想とセットとして展開する。この輪廻と密着する業の思想は、因果論として決定論や宿命論のような立場で理解される。

wikipedia「業」

少し違う分野の本だが、「格差という虚構」という書籍でもこの決定論、宿命論について触れられていた。ここでは、決定論的であるが、そこに偶然性があることに希望を見出していた覚えがあるが、目次だけしか読んでいないのでうろ覚えである。

おわりに

「noteに公開するならば、それなりの文章で!」なんてことを考えていたが、今はとにかく掘り起こす時期なのではないかと仮定を立てた。なぜなら、今回の記事のような自分の中で確立されていない、ぐちゃぐちゃとした思考を言葉にしようとすることこそが、言語化の第一ステップだと考えたからだ。

加えて、これまでやろうやろうと思っていたことや、積ん読本の消化スピードが少し早まるという副次的な効果も期待できそうだ。
理想は、このような記事を書いて、後ほどブラッシュアップを図ることだが、今はそんなことより書く書く書く、という気持ちで進めていく。

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