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自分を責めるという事

何ヶ月か前までの私は自分を責めることが大の「得意」であった。例えば夫の出勤に必ず持って行く物を準備し忘れた時。ごめんという言葉が素直に出ない。出るけど、「私ってなんて出来ない妻なんだろう」と思ったかと思えば「夫だって自分の準備くらい自分でしてくれたって良いのに」と考えて後「夫の所為にするなんて、私はなんて卑怯なんだろう」とか言う具合である。

現実は「私が夫の出勤用意をし忘れ、それによって夫に迷惑をかけた」事であるから、それに対する対応は「ごめん、今度から気をつけるね」と夫に素直に謝り、今後同じことを繰り返さないように自分なりに何らかの工夫をするようにしよう、と決めて実行するだけである。極めてシンプルなこの「現実」と「対処法」。

この対処法には、自分が出来る妻かどうかとか、夫が自分で用意するかとか、私が卑怯とか、全く関係ない。なんのお話か、と言う感じである。でもここをわざわざこってりと混ぜて、分かりづらくして、しんどくして、夫との関係を悪くしているのは「自分」である。

こんなシンプル過ぎるくらいシンプルな事を、私は永らくわかっていなかった。お恥ずかしい限りである。事実とそれに対して起こる感情はわけねばならない。そして「感情」に良い悪いはない。全部自分の、愛しい感情ちゃん達である。そうか、怒ったんだね、怖かったんだね、嬉しかったね、といちいち味わうというか、感情が起こったことを否定する必要など全くないのである。事実と分けるだけである。

自分を責めるという事はこの分別が出来なくなる。分別の前の段階で止まり、感情の渦に飲み込まれる。そうなるとオロオロし、収拾がつかなくなる。周りに助けを求める。しかし解決は自分が分別する事によってのみしか得られないのであるから、また「こんなにオロオロするなんて、ダメな私」とか或いは周りに対して「どうして答えをくれないの?冷たい人だったんだ」と怒り悲しみ、その後「あの人を恨むなんて、ダメな私」となる。負の堂々巡りである。周りだって助けようがない。

まさにこの負の堂々巡りをしていた私を、ある人が引っ張り出してくれた。決して耳障りの良い言葉ばかりをかけてもらった訳ではない。正直、もうご縁をこちらからお断りしようかと思った事もあった。だが、その人は根気よく、私が堂々巡りから抜け出せるよう、私を信じて待って下さった。私も私を信じられなかった時に、その人だけは私のことを信じてずっと背中を押して下さった。

今私は凄く自由な心でこれを書いている。自分を含めて、誰も責めたいと思わない。責めることが何の益もない事を、骨身に染みてわかっている。今自分や他人を責めている人がいたら、どうか事実と感情の分離を落ち着いてやって欲しい。そして、少しずつでいい、先ずはこの世にたった一人の、神様から人間になって地上に降り立つことを許された稀な存在の自分を、大事にしてあげて欲しい。