見出し画像

城の落とし方

先日夫は午前中だけ在宅勤務で、午後から出張だった。出張先には家から直行直帰で良い、とのことだったのでそうした、と言う。
私はその日は出勤日で、八時半には家を出ねばならない。帰ってくるのは二時半を回るので、夫とはすれ違いになってしまう。昼食の用意のみして、じゃあ気を付けていってらっしゃい、戸締り頼むわ、と言いおいて出かけた。

仕事を済ませて帰宅すると、リビングの扉が閉まっていた。冷房を入れる時以外は普段開けっ放しにしているので、おかしいなと思って開けると、ひんやりした空気が顔を撫でた。えっと思ってエアコンを見ると、スイッチが入っている。
百歩譲って、帰宅する妻の為にタイマーを入れておいてくれたのかとも思ったが、そんな事は夫の性質上、先ずあり得ない。完全に切り忘れである。夫が出かけたのが正午くらいの筈だから、約二時間半点けっぱなしということになる。ああ、勿体なや。
帰宅するといつも暑くて嫌になるから、まあたまにはこういうのも良いか、と気を取り直し、こぼれたミルクは元に戻せない、しゃあないわと自分に言い聞かせて涼しい部屋で遅い昼食をとった。

私は暫く夫にその時のことを言うのを忘れていた。
翌週の土曜日、楽団の練習から帰ってくると、夫は二階の自室でピアノの練習に勤しんでいた。一階のリビングはエアコンも電気も消してある。おっ珍しいなあ、と思いつつエアコンをつけようと奥に入っていくと、静かに扇風機が回っていた。エアコンの効きを良くするために、いつもつけているのを切り忘れたようだった。
ぬかったな。詰めが甘い夫らしい。先日のエアコンのこともあるし、ちょっと釘を刺しておく必要がありそうだと思った。
「おう、帰ってたか。お帰り」
そう言いながら降りてきた夫に、
「ただいま。扇風機つけといてくれてありがとう」
とにこやかに言ってみた。
「ん?ついてたか?しもたー」
やはりうっかりしていたようである。この時、先日のエアコンの件も思い出したので、
「この前はエアコンも入れといてくれてありがとう。お仕事から帰ってくる私に、お部屋涼しいにしといたろう、と思うてくれてんなあ」
と言ったら顔色を変えて、
「嘘!いつや!?」
というので説明すると、夫はうーんと言葉に詰まった。が、急にニヤニヤしたかと思うと、
「そや。オレは優しいからな。お前が暑かろうと思うて、つけといたってん」
と白々しい嘘をついて開き直った。お生憎様、此方はこんなことくらいで負けたりしない。何年あんたの奥方をやってるか知ってるやろ。
「そうでしょう、そうでしょう。優しい夫やわあ。私には勿体ない、素晴らしい旦那様で、私は過ぎた幸せ者やわあ」
褒め殺し作戦である。絶対非を認めようとせず、自分から謝らない人間は、こうやって攻めるに限る。勿論、嫌味もたっぷり加える。
「そうやろそうやろ。有難く思え」
こう言いつつも、夫は形勢が段々不利になる。辛うじて持ちこたえようとするが、自分のやったことは動かぬ事実なので、如何ともし難い。結局最終的に、
「ごめーん。うっかりしてた・・・」
と白旗を揚げることになり、ここで私の勝利が確定する。最初から素直に認めえや、ホンマに。

どうも素直でない人で困ってしまうが、こちらも二十年以上の間に慣れてきて、闘う術を心得てきたので、最近はこういうやりとりも面白がっている。間違いを指摘して責めるのではなく、面白がるくらいでいると、不思議とこちらの言いたいことがすんなり通じるように思う。喚いて責め立てると、相手は「自分が良くなかったことくらい、わかってるわ」という具合に、プライドを逆撫でされて余計に意固地になるものだ。
城を攻める時は外堀からじわじわ埋める。内堀をいきなり埋めたりしない。天守閣に大砲を打ち込むのは最終手段に取っておかないと、こちらも玉切れになってしまう。つまらない戦に大事な玉を使うことはない。
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス、である。

しかし殿、物価高騰の折、くれぐれも節電にお心配り頂きますよう、奥を取り仕切る者として、切にお願い申し上げまする!