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理想像

常々夫の愚痴ばかり書いていると、『じゃあ私は一体どんな夫だったら満足するのだろう』とふと考えることがある。
取り敢えず、外見については何も言うまい。
自分だって道行く人が振り返るほどの美女でもなければ、森 泉のような長い手足の持ち主でもない。その相手なのだから、夫だってそれ相応でないと、つり合いが取れないというものだ。
夫の外見は私と同じく、中の中?くらいと思っておいて良いだろう。
これ以上は何も望まぬ。贅沢は言えない。

私が夫について『こうあって欲しい』と思っていることの筆頭は、なんといっても『ものを片付けて欲しい』ということに尽きる。
整理整頓を徹底しろとは言わない。しかしせめて、出したものを元通りにしまうくらいはして欲しいと思っている。
郵便物を剥いたなら、不要になった封筒を破棄しておいて欲しい。お菓子を食べたなら、外袋をゴミ箱まで持って行って欲しい。食べこぼしをしたら、簡易的にでも拭くなりなんなり、後始末をしておいて欲しい。
そんなに無理を言っているとはどうしても思えないのだが、夫はこれらの行動を取るよう依頼すると、物凄く抵抗する。
自分の提案にこそ正当性があると思ってはいても、抵抗されるのは嬉しくない。家庭の平和を保ちたいなら先ず隗より始めよ、であるから、ここはぐっと不満をやり過ごして、そっと夫の尻拭いをする。しかし片付け婆と化した自分の姿はあまり嬉しくない。このままどちらかが朽ち果てるまで、私のこの役は変わることはないのか、と思うと無力感に襲われることもある。

私の父は整理整頓を徹底し過ぎるくらい、する人である。どこに何があるか、すぐに答えが返ってくる。頭の中まできちんと整頓されているように思う。
この父親によって超箱入り娘に育てられた為、私は夫と結婚するまで、世の男性というものはこちらが依頼しなくとも整理整頓が出来るものだ、と当然の如く思い込んでいた。
結婚後は夫のような、父と真逆の男性が存在する、ということにかなり驚くと同時に、自分の世間の狭さを思い知ることになったのであるが、それでも父のような男性が存在するのなら、夫もいつか片づけが出来るようになってくれるのではないか、という淡い期待も芽生えた。
しかし、今はそんな期待をした自分の浅はかさを後悔している。
三つ子の魂百まで。人はそうそう変わらない。

しかし母に言わせると、父の行動は
「あとで片付けようと思っているものを、コセコセとこれ見よがしに次々片付けられるとムカつく」
そうで、嫌なものらしい。
私なら嬉しいと思うが、母と父がそれぞれ、どういう風に相手を見ているか、が大いに投影されているのだろう。
「ちょっとくらいぐうたらな方が、男として可愛らしい。母性本能をくすぐられる」
というのが母の弁であるが、『ぐうたら』も程度問題である。
外面の良い夫は、私の実家ではゴミを散らかしっぱなしにしたりしないから、母の『母性本能』をほど良くくすぐっているものと思われる。
私はと言えば、『外ではやるんかい、家でもやろうと思えばできる癖に』と面白くない気分にさせられるだけである。

人間、どうしてもついつい『ないものねだり』をしてしまいがちである。
夫がもっとイケメンだったら。
もっと背が高かったら。
もっと柔軟な考えの持ち主だったら。
もっと清潔好きだったら。
いえいえ、どれも望みません。
他人を変えることは容易ではない。だったらこっちの視点を変える方が効率が良い。
イケメンじゃないけど、そこそこカワイイやん。
高くはないけど、まあまあ背あるやん。
頑固やけど、最近はちょっとずつ変わってきたやん。
ここまでは及第点だ。しかし『そこそこ清潔好きやん』とはとても言えない・・・どうしようか。
『車だけは物凄く清潔にするやん』とでも言っておくか?うーん・・・。

夫もきっと、こんな風に私の色んなことを諦めつつ、ボチボチ仲良くやっていこうと思ってくれているんだろう。
お互い理想のパートナー像にはかなり遠いけれど、こんなとこで手を打つことにしようか。
あ、でも整理整頓はもうちょっとしてくれても良いと思うで。






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