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いつまでが夫婦

ジェンダーレスの昨今に於てはどうかと思うが、昔は『女は強かな生き物だ』などとよく言われた。
確かにそう言われればそうかも知れない。
若い頃は仕事柄、伴侶を亡くしたお客様に沢山接してきたが、多くの場合立ち直りが早いのは女性であった。
男性は人が違ってしまったように気力が萎え、急に老け込む方が多いのに対し、女性は暫くの間こそ涙にくれるが、グズグズしていてもしょうがない、自分の人生を歩もう、と潔く切り替えて、逞しくその後の一歩を踏み出す方が多かった。
勿論個人差はあるが、この差はなんなのだろう。

考えられる要因はいくつもあると思うが、恐らく女性の方が命の危険にさらされるような機会に、必然的に会ってきているからではないか、と思う。
妊娠出産はそれだけで、自分の命を失う危険性を背負う。でも嫌だから、といって途中で投げ出す訳にはいかない。
何かあったらもうしょうがない、と腹をくくる遺伝子が、女性の中に生まれながらに組み込まれているような気がしてならない。

最近、姑は度々
「お父ちゃんには長生きしてもらわんと、どもならん。私の年金だけでは生活が苦しいさかいに」
とあからさまに言うようになった。
夫を愛しているからとか、好きだから相手の幸せを思って、という理由で長生きを望むのではない。
いや、そういう面も多少はあるだろうが、一日でも長く、自らの『金づる』として生きてくれることを望んでいる、と言って憚らない。
聞いている方はなんとも複雑な気持ちになってしまうが、なんの恥ずかしげもなくこういう台詞を吐いてしまえるのも、加齢による変化なのだろう。

姑は昨日、老健に入所した。
ここには姑よりずっと前から舅が入っている。やや認知機能は衰えつつあるものの、おかげさまで身体は元気でいてくれる。
姑を迎えてくれた職員さん達は、皆口々に
「良かったですねえ。○○さん(舅の名)にも会えますよ!」
と笑顔で話しかけてきてくれた。

年老いた夫婦であっても、必ずしもお互いの事を心から思いやり、自分の利害など関係なしに、純粋な気持ちで相手の幸せを願うとは限らない。
例外はあるだろうが、老いる前に不仲だった夫婦が、老いたら急にお互いを思いやるようになった、等ということは考えにくい。

姑と舅は不仲ではなかったが、家庭内に於ては大体の場合姑が支配的で、舅はおとなしく従う、という感じだった。
夫や姉の子供時代の話を聞いている限りでは、家の大黒柱としての舅を立てる、というような配慮は姑にはあまりなかったようだ。
家族としては平穏無事に成り立っていたのだろうけど、夫婦がお互いの存在にしみじみ思いを寄せる、なんてことはあまりなかったようである。

しかし、職員さんの言葉に対する姑の言葉に、私は目を丸くした。
「そうですねん!私、今回ここに来たんは、それが目的やったんですわ!ああ、早うお父ちゃんに会いたい!もうそればっかり思うてますねん!」
祈りを捧げる乙女のように胸の前で両手を組んで、姑は目を潤まさんばかりに声のトーンを上げた。
「そうですよねえ。旦那さんもきっと待ってはりますよ。すぐに会えるように時間調整しますから、ちょっとだけ待ってて下さいね!」
「ありがとうございます。一刻も早くお願いしますわ!」
うーん、姑のどこにそこまで舅を思う気持ちがあったのだろう。
毎日電話していたけれど、舅に関する話題はこちらから振らない限り、持ち上がらなかった。
加齢のせいで、思いを寄せられる範囲が狭くなっているのだな、と好意的に理解することにしていたのだが、お金云々を聞かされると、夫婦ってこうなってしまうのかなあ、とちょっと残念な気分になったりしていたのだった。
ここからの突然の乙女モードである。私はついていけなかった。

しかし、職員さんは真に受ける。
「お待たせしてごめんなさいね。なるべく早い内に設定しますからね」
姑に一生懸命謝って下さる。
ああ、職員さん、すいません。その人、十分後には今言ったこと忘れているかもです・・・。
心の中で頭を下げておく。

夫婦ってなんなんだろう。
いつまでがそう呼べるのだろう。
結婚当初から今日までの義父母の姿を思い返しつつ、バスの車窓から暑い京都の夏をぼんやりと眺めていた。