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非常に残念

独身の頃働いていた職場でお世話になったMさんは、私の仕えた三人目の店長だった。小柄だけれど目に力がある人で、昔は凄腕の営業マンだったと噂に聞いた。
だからか営業の私達には大変厳しかった。しかし仕事を離れると砕けた気さくな人柄で、店長室を出て気軽に話しかけてくれることも多かった。常に緊張感を持って接しなければならない威厳はあったが、温かい人柄の方だった。

実はこのMさんの前の店長は店の誰とも反りが合わず、周りは敵ばかり、という感じの冷たい人だった。ニコリとすることも殆どなく、いつも眉間に皺を寄せ、口数も少なく口を開けば叱責で、不機嫌な表情を崩すことはなかった。
皆から嫌われていたこの人が、店中で一番目の敵にしたのが他でもない、私だった。食堂での箸の上げ下げから通勤時の服装、業績は勿論、挨拶の仕方に至るまでイチイチ口うるさく難癖をつけては激しく叱責した。周りの人間もこの人と深く関わることを恐れ、私と前店長のやりとりを遠巻きに見るだけだった。
だから私はこの時期、一部の人を除く店内の人間と良好な関係を築くことを、すっかり諦めていた。孤立無援と言った気持ちで、毎日毎日退職することばかり考えていた。

店長は交代時、前任店長から取引先と職員に関する引継ぎを受ける。二人で店長室に籠って、何日もやる。そこで職員の顔と名前、所属や性格なども頭に入れてしまう。
当初私は、Mさんはきっと私に関して良い情報は得ていないんだろうな、と腹を括っていた。

新店長は引継ぎを終えると、全職員一人ずつと二人きりで面談するのが通例になっていた。
今回もそれが行われ、いよいよ私の順番になった。
緊張しきって部屋に入った私にMさんは座るように促し、手ずからお茶を淹れて差し出すと、
「家ではカミさん任せなんでなあ。上手く淹れられてなんだら、すまんなあ」
と言ってにっこり笑った。
店長にお茶を淹れてもらうなんて初めてで、驚いてひたすら恐縮した。
様々な業務に関する聞き取りが行われ、最後に店長が穏やかな目をして、
「何か僕に言っておきたいことはある?」
と訊いてきた。
その目を見た時ふと、この人は私を不当に傷つけないんじゃないか、そんな気がした。私はちょっと間をおいてこう言った。
「もう既にお聞き及びと思いますが、私は前任のN店長と非常に折り合いが悪く、私の意思を正しくご理解頂けることは最後までありませんでした。私は私でN店長のなさりように納得がいかず、人事部に直訴したこともあり、副部長まで巻き込んでちょっとした騒ぎになりました。
N店長がどのように私のことを引き継がれたのかは分かりませんが、私は私なりに一生懸命頑張るつもりでおります。よろしくお願いします」

私の目をまっすぐに見て、話にじっと耳を傾けていたMさんは静かに、しかし決然とこう言った。
「僕は僕の目で見て、僕の心で感じたことを信じます。心配は要りませんよ」
大丈夫、安心しろ、ちゃんと何もかも分かっているから。そう聞こえて、私はホッと胸を撫でおろした。

それからしばらくして、私が融資案件で大きめのチョンボをしてしまったことがあった。住宅ローンのお客様に、登記費用の話をするのをコロリと忘れていたのである。
お客様はそんな話聞いていない、とお怒りになるし、登記をしなければ融資は出来ないし、みんな困ってしまった。私もオロオロしたがどうしようもなかった。
結局、ウチの店に沢山の仕事を貰っていた司法書士の先生が泣いて下さってなんとかピンチを切り抜けたのだが、その日店が閉まってからMさんに呼ばれた。融資課長とウチの課長も一緒だ。
Mさんは融資課長から事の次第の説明をじっと聞いていた。そして課長には
「これからは課員のフォローをもっとマメにするように」
と一言だけ注意した。融資課長には司法書士の先生に都合を聞いて、自分が謝罪に赴く旨、伝えるように指示した。
そして最後に私に向きなおると、
「仕事はトントンと進んでいる時ほど、確認を怠ってはいけないんや。なんか上手く行きすぎてるなあ、気持ち悪いくらいスルスル行くぞ、っていう時ほど用心に用心を重ねなければいけない。今後、二度とこのようなことがないように。今回のことは非常に残念!」
と言って、本当に残念そうに私の目を覗き込むようにした。

てっきり厳しい叱責の言葉を食らうものとばかり思っていた私は、拍子抜けしてしまった。そして『残念』という言葉に、私への信頼と期待を感じて、申し訳なくていたたまれない気持ちになった。
どんな厳しい叱責より、堪えた。

二十年以上経った今でも、あの時のMさんの残念そうな表情を思い出すと、ああ、とんでもないことをしてしまったなあ、と後悔の念に駆られる。そして二度と同じような間違いを犯すまい、と思う。

人を思っての叱責には、期待と信頼と愛情がたっぷり込められているものなのだ、と感じさせられた、旧い昔の思い出である。