見出し画像

自分の足で

誰かに裏切られたとわかった時の反応は人によって違う。私の場合は相手にもよるが、あーあ一本取られたなあ、と思い、今後はそういう目に会うことがないように気を付けよう、と思う。この程度の感想で済むのは、人生を揺るがすほどひどい裏切りに会ったことがない、という幸せな証かも知れない。
『裏切られたと思う』と言うことは、相手に『自分にとって都合の良い行動をとってくれることを期待していた』と言う事でもある。その期待は例えどんなに現実化する確率が高くとも現実ではなく、自分にとって都合のいい妄想でしかない。相手はこちらの内心まで知らない。なのに当てが外れたことに対して、がっかりするし落ち込む。相手を恨む。
人間は勝手なものだ。

自分への期待についてもこれと同じことが言える。当てが外れれば落ち込むし、自己嫌悪に陥る。嫌になる。
じゃあ期待しなければ良い、となりそうだが、そんな人生は味気ない。妄想は人間をステップアップさせることだってある。こうなったらいいな、とまだ見ぬ将来の現実を思い描いてワクワクする時間は楽しいし、絶対に必要だと思う。
期待の果てにはなりたい自分がいる。実現したい現実がある。そんなこと本気で思ってないよ、と言っても妄想した時点でその言葉の真偽は怪しい。
封印していた自分への期待感を他人の言葉によって自覚し、私にもこんな現実が待っているかも知れない、とワクワクすることはいくつになってもある。「懸賞金が当たりました」なんて詐欺の電話に騙されるのはこういう心理が働くのだろう。

ここで確認しておかねばならないのは、期待したのはきっかけになった言葉をくれた人ではなく、あくまでも『自分』である、ということだ。
だから自分が想像した未来に責任を持たねばならないのは『自分』である。その期待に沿えるように行動するのは『自分』なのだ。
不幸にも、封印を解く言葉をくれた人と二度と言葉を交わすことが出来なくなったとしても、その人を恨んだり失望したりするのは筋違いである。詐欺は犯罪だから別として。

自分の期待を現実化するのは自分にしか出来ない。当たり前だ。
自分にはできる、と自分を信じてやるのは究極は己一人で十分だ。
『ビリギャル』のさやかちゃんの恩師である坪田信貴先生に『才能の正体』という素晴らしい著書がある。
この中にこんな一文がある。
「できない理由を誰かのせいにした瞬間に、あなたは自分の才能の芽を枯らしている」
今、さやかちゃんは更なる夢に向かって猛進中だ。その力強い記録はnoteでも読むことが出来る。自分の力を信じ、柔らかい考え方と広い視野で、しっかりと地面に足を着けて自分の本当にやりたいことを見据えている彼女の行動には勇気づけられるし、いくつになってもこうありたいと思わされる。

『目標』ではなく、『ワクワクするやりたいこと』がある。『夢』というより『今はしていないけれど将来実現したい現実』がある。いくつになってもさやかちゃんのように、それを見失うことなく前へと進みたいものだ。
自分を勇気づけてくれる他人の言葉は嬉しい。しかしそれはあくまでも『他者』による、言い方は悪いが『無責任な承認』である。私も含めて、人間はそれについもたれかかりそうになる。自分で自分を認めるより楽で手っ取り早いからだ。
有難いけれど、もたれかかってはいけない。マラソン中の給水スポンジと同じで、自分のパワーの足しにはなってくれるけれど、当てにしてはいけない。給水スポンジは何かの都合で手に取れないことだってある。
普段から練習し、本番に備えるのは自分にしか出来ない。

やりたいことに踏みだすのを躊躇している時、背中を押してくれる他人の言葉は確かに貴い。「あんた、適当なこと言って」と叱られたり恨まれたりするリスクを冒してまでそういう言葉を投げかけてくれる人には感謝すべきだろう。
だが実現に向かって『踏み出す』のは自分の足でしかできない。
そのことを肝に銘じて、これからの人生をワクワクしながら創造していきたいと思っている。