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遅れてきた記念日

一昨年の三月、夫は結婚記念日を忘れていた。まあ、珍しいことではない。でも私がバカバカしそうに
「ええ、ええ、私しか覚えてないと思ってましたよ」
と一応拗ねたので、夫なりに申し訳なかったと思ったらしい。昨年はしっかり覚えていた。だが私の方がものの見事に忘れていて、
「今日はどんなごちそうかと思ってたのになあ。ええ、ええ、どうせそうだと思ってましたよ」
と復讐?されてしまった。返す言葉がなく、ごめんごめんと珍しく私が謝る羽目になってしまった。

ところが今年は二人そろって綺麗さっぱり忘れていた。二週間ほど経ったある日の朝、洗面所で
「あ!そういえば結婚記念日過ぎたねえ?」
と本当に唐突に思い出して夫に告げると、髭を剃っていた夫は手を止めて固まってしまった。
「ほんまやあ!」
「ありえへんなあ!ついに二人共忘れてたで!」
二人して朝から爆笑した。考えてみれば二十五年を過ぎた。二人とも大した病気も事故もなくここまでやってこれたのは有難いことなのに、その記念日を忘れるとは罰当たりなことだ。

その週末はささやかながら、すき焼きで遅いお祝いをした。食事をしながら、
「お前、今欲しい物ってないの?」
夫がいつものように私に聞く。
「うーん、特にない」
私がいつものように答えると夫はため息をついて、
「またか。たまにはなんか言えや」
とつまらなさそうに言った。

私はあまり物欲がないというか、「凄く欲しいもの」がない。我慢しているのではないし、欲しがらないのが美しいことだとも思っていない。むしろ何も欲しいものが出てこない自分が、なんだか欠陥品のような気がすることすらある。
我慢をして自分を封じ込めることに長い間慣れると、人間は自分が本当に抱いている欲望がわからなくなってしまう。私はそれだと思っている。が、ここ数年は心から欲する「これ食べたい」「あれ欲しい」が少しずつ出てくるようになった。ムラサキウニとかエルメスのバーキンとかいう荒唐無稽なものではなく、せいぜいコンビニの新作スイーツとか春物のコートなどだから、自分で満たすことが出来る。だから夫にねだるまでもないのだが、夫は永らくそれがちょっと不満らしい。

翌週の水曜日、夫は早帰りの筈なのにちょっと遅くに帰宅した。翌日在宅勤務の時は前日遅くなることもあるのでそのつもりかな、と思っていたら
「ケーキ買って来たったぞ」
と雪が降りそうなことを言って箱を差し出したので、大変驚いた。結婚以来自発的に夫がケーキを買って帰るなんて、一度もなかったことである。
「この店な、今日オープンでめっちゃ並んでてん。うまそうやったから、お前も食いたいやろな、と思って」
夫は私同様、列に並ぶのを死ぬほど嫌う人である。その夫が並んでいて遅くなったとは!
びっくりしている私を前に、夫は得意顔である。通販で買った、夫の変な買い物の荷物がドーンと届くのは嫌だけど、こういうサプライズなら大歓迎である。
食後に二人で紅茶とケーキを頂く。話題の店で、ファン待望の関東初の店舗なんだそうだ。フルーツいっぱいのタルトは、とても美味しかった。

私が最近「食べたい」と思って密かに憧れているのが、イギリス式のアフタヌーンティーである。ウチでは「鳥かご」と呼んでいる。あの、段々になっているデザートやサンドイッチなどを優雅に食べてみたい。一人では行きづらいので、夫を誘っている。しかし、夫はそういうところに行きたがらない。
「そんなもんに〇千円も出すんか!」
と目をむいている。
良いじゃないか、非日常。たまには味わいたい。でも拒否される。
「こっぱずかしいやんけ」
とも言う。誰もあんたなんか見てないってば。
夫がどうしても首を縦に振ってくれないので、最近は諦めて一緒に行ってくれる人を物色中である。

件の人気店はその「鳥かご」が有名な店だった。店内で食べられるようになっているらしい。
「『鳥かご』はお持ち帰り出来ひんけどな、ケーキは買えたからな」
と夫はケーキをぱくつきながら満足そうに言った。
嫌がって悪い、と思ってたのかな。実は自分も本当は食べてみたかったりして。どんな顔をして若い女の子に混じって並んでいたのだろうと思うと、笑いが込み上げる。

ケーキを食べながら、
「今更やけど、これからもよろしくお願いします」
そう言ったら
「おう、よろしく」
となんとも軽い返事が返ってきた。夫らしい。
少しずつ少しずつ『夫婦』と言う布を織っていくようなありきたりの毎日に、改めて感謝した日だった。