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我が家の時計達

我が家は家中至る所に時計がある。居間には壁掛け式と夫の目覚まし。ダイニングには壁掛け式。シンクの横には小さな柱時計。洗面所には小型の置時計。トイレにももう少し大きな置時計。二階に行って、私の部屋には掛け時計と置き時計。夫の仕事部屋にも掛け時計が一つ。総計九個。二人暮らしの家に何故こんなにたくさんの時計が必要なのか、自分で設置しておいて不思議になることがある。
居間とダイニング、夫の仕事部屋の掛け時計は電波時計だ。これ以上無理なくらいシンプルなデザインである。これはこちらに来てから夫が購入した。
「もうこれ以上物を増やさないで」という私の懇願虚しく、センスのまるで感じられない大きな時計が三つも増えてしまった。正確なだけが取り柄であるが、時計本来の目的は果たしているから良いか、と諦めている。

時計というのは私が若い頃は、結婚祝いに貰うことが多かった。親しい友人には「時計は要らんで」と言っておいたのだが、職場の上司、楽団の先輩などには予め注文をつけるわけにもいかず、大きな置き時計が二つも被ってしまった。最初に住んだ狭いアパートには全く置く場所がなかった。かといって収納しておく場所もない。結局泣く泣くリサイクルショップに売ることになってしまった。
今の家にもあんな大きな置時計の置き場はないから、申し訳ないがそれで良かったのかも知れないと思う。

トイレの時計は夫の会社の創立記念日に、社員全員に配られたものだそうだ。使い易いので、前の家でも使っていた。が、どういう訳かずっとトイレ専用の時計になってしまっている。
電池式なのだが、この時計が何故かよく遅れる。酷い時は五分以上遅れる。朝のトイレが長い夫は、「信用ならんから」と言ってスマホを持ち込んで、どちらかというとそれをあてにしている。時計の意味はないようなものだが、惰性でずっと置いている。記念品だから捨て辛いというのもある。大した装飾もなく、プラスチック製の、全然お洒落ではない時計なのだが、裏面に
『○○会社創立××周年記念品』
と書かれているだけで、大層大事な時計になってしまっている。

洗面所の時計は私がダ〇ソーで購入した、小さな置時計である。ウチの洗面所は家中のどの時計も見づらい位置にあり、歯を磨きながらウロウロして時間を確認するのは面倒なので、窓枠に置ける小さなものを用意したのである。
思い入れなどないので、極めて実務的な、超絶シンプルなデザインである。とても見やすくて良い。
良いのだが、この時計はトイレの時計と逆で、非常に進み過ぎてしまう。酷いと十分くらい進んでしまう。時計の針を見て、「えーとマイナス十分すると今は結局○○分やな」という具合に、頭の中で引き算をしながら時間を推測することになっている。あんまり実用的とは言えないのではないか、という気もしている。

シンクの時計はのんびり屋さんで、ジリジリと少しずつ遅れだし、気付くと三分くらい遅れている。よく気を付けて見ておいてやらないと、更にドンドン遅れてしまう。すごく世話の焼ける子であるが、結婚以来ずっと一緒に居るので夫婦そろって情が移ってしまい、最早家族の一員のようで捨てる気になれない。この子は夫が二十代の時に初めて買った車のディーラーからお礼に貰った言わば「粗品」なのだが、今までの小さな家では丁度良い大きさで、メインの時計として非常に重宝したのだった。
今の家では存在感は薄いが、私は洗い物をしながら「お、もうそろそろ大河ドラマが始まる!」などと時間を確認するのに使っている。あくまでも「そろそろ」くらいの時間を見る為に使っており、正確な時間の把握をこの時計でしようとは思っていない。ギリギリ時計の役割は果たしている、と言えるだろうか。

こうやって見ていくと、数はあるのに、まともに時を刻んでいる時計は半分くらいしかないということになる。
時々コイツらの時間を修正してやりながら、「なあ、あんたなんでそんなに進むねん?」「おーい遅れてんでー」とのんびりと声をかける。なんだか愛しくなってしまうのだ。
すぐに遅れる子も、おっちょこちょい?でつい進み過ぎてしまう子も、のんびり屋さんで気付いたらジリジリ遅れている子も、その子に応じた読み方をすれば時計として使えている。
我が家の時計達は今日もそれぞれが好き勝手に、自分だけの時を刻んでいる。誰に似たんだか、いい気なものである。