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寂しいと人は

随分前に所属していた楽団での話である。
みんなに蛇蝎のごとく嫌われている、Aさんという御仁がいた。自分の技量に自信たっぷりで、他のメンバーをあからさまに見下す。といっても技量は大したことはないのだが、著名な先生に師事しており、高級な楽器をいくつも所有しているという事実は、彼を勘違いさせるのに十分だったようだ。
コンサートの曲目に自分のパートのソロがないと、選曲委員にくってかかる。あっても他のメンバーには吹かせない。
老害、と言う言葉がぴったりくる人だった。

私が入団して間もない頃、地元の夏祭りのステージに出演する機会があった。
本番前、みんなは控室で賑やかに喋っていたが、私は誰も知り合いがいないので、楽器の手入れをしながらぼんやりと外に流れる祭囃子を聞いていた。
するとAさんがやって来て、隣の椅子に座った。直接喋ったことはなかったけれど、みんなが悪口を言っていたのは知っていたから、なんとなく居心地が悪かった。
「初めての本番ですね」
Aさんは私にそう話しかけてきた。別に偉そうでもなんでもなかった。ちょっと安心して、私はAさんを見た。
「はい、そうなんです。子供が夫と一緒に見に来るって言ってました」
そう答えると、Aさんは目を細めた。
「お子さん、おいくつですか?」
「五歳です。お祭り、大好きで」
「そうですか。可愛い盛りですねえ。ウチの孫はもう大きくなってしまいましたが、そんな時期もありました」
Aさんは机に楽器を置いて肘をつくと、掌に顎をのせて遠くを見るような表情になった。
「お孫さん、いらっしゃるんですね。もう小学生くらいですか?」
「ええ、生意気言うようになりましたよ。爺ちゃんが風呂に入れてやったの、忘れてるやろ!っていうんですが」
Aさんはハハハ、とちょっと声を上げて笑った。
この人、ほんとにみんなが言うような人なのかな。
ちょっと疑問が生じた。

「子供ってすぐに大きくなってしまいますからね。お子さん、今のうちにいっぱい可愛がってあげて下さいね」
Aさんはちょっと寂しそうに笑いながらそう言った。
「そうですね。今は子育て必死ですけど、いつの間にかそんな時期もあったなあ、なんて思うようになるんでしょうね」
そう答えると、Aさんは
「そうそう。あっという間ですよ。今は誰も爺ちゃんの本番なんか見に来ません」
そう言ってまたちょっと苦笑いした。

私とAさんが喋っているのを、他のメンバーが遠巻きに見ているのに気づいたのはその時だった。二、三人ずつ固まって、何か言っている。
内容は私にも大方推測がついた。
するとAさんは私にちょっとだけ頭を下げて、楽器を持って椅子から立ち上がり、不機嫌そうな顔をしてどこかへ行ってしまった。
「何か言われてたんですか?大丈夫でした?」
同じパートの若い女の子が心配そうに寄ってきて言った。その表情にどこか違和感を覚えたが、
「いえ、別に。何でもない話でしたよ」
とありのままに答えた。彼女はちょっと不満そうだったが、それならいい、と立ち去っていった。
Aさんが私に嫌なことを言わなかったのが意外で面白くない、そんな風に見えた。

その後楽団に馴染むにつれ、Aさんの横暴ぶりは、先生も手を焼いているくらいだということがわかってきた。気に入らないことがあると合奏中に憤然と席を立って帰ってしまったり、些細なことで怒って団長にくってかかったり、みんな困っていた。
でもパートも違い、直接の利害関係がなかったせいか、私にはいつも穏やかだった。Aさんがみんなと揉める度、私は夏祭りの会話を思い出して複雑な気分になった。

もしかしたら、みんなが「気難しい人」と遠ざけるから、Aさんは益々頑固で気難しい人になってしまっていたのかも、と思う。
気難しいことを言われれば、誰だって嫌な感じがする。次にその人が口を開けば警戒するのは当たり前だ。Aさんは自分で周りとの間に壁を作っていたのだ。
Aさんをそうさせていたものはなんだったろう。家でも孤立していたのかも知れない。小さい頃は懐いてくれていた孫達の足も遠のき、寂しい思いをされていたのかな、と思う。
あの頑なな態度は、寂しさの裏返しだったのだろう。

その後Aさんは奥様が入院され、遠くはなれた娘さん宅に身を寄せることになって、退団された。
みんなは
「あんな旦那やから、奥さん病気になってしもたんやわ」
と最後まで辛辣だったが、私はなんとなく切なかった。
楽器を続けておられるだろうか、やっぱり今でも周りと衝突されているのかな、と時々思い出してしまう人である。