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失うもの

私が若い頃勤めていた職場には、一風変わった先輩がいた。
極力「風呂に入らない」のである。
私がいたのは営業課でお客様のところを訪問するのが仕事だったから、入社時の研修中や配属されてからも「身だしなみ」についてはうるさく指導された。人間として相性がいいか悪いかを論じる前に、お客様と同じ土俵に乗るために必要な最低限のマナーであると教えられた。

「風呂に入らない」と言うことは垢を落としていない、と言うことと同義であるから、それなりの匂いがする。
営業課には課長の他男性六人、女性四人の計十人が在籍していたが、机を男女交互にして向かい合わせにしていた。つまり何分の一かの確率で先輩の横の席になるか、前の席になる可能性があるわけである。人一倍鼻が敏感な私は先輩とすれ違っただけで「オエっ」と顔をしかめていたくらいだったから、隣か前かになるともうやめてくれ、と言いたかった。
自分の匂いは本人にはわからない、とよく言われるがその通りでご本人は涼しい顔をしていた。

もっと信じられないのは、この先輩に「彼女」がいたことだった。しかも同じ課の私の後輩である。
同期の間でも先輩の匂いについては「お客さん気付いてる人絶対いるよねえ」という話になっていたくらいだったから、鼻の利く私だけが臭いと思っていたわけではない。だからその後輩が匂いに気付かなかったということはないと思う。
「先輩は優しくて、良い人ですよ」
と彼女はよく私達にのろけてくれたが、その度に「お風呂入るように言いや」と勧めていた。
彼女は素直な優しい子だったから、先輩のことを心配して
「ちゃんとお風呂入らなあかんで。お客さんにも失礼やろ」
と言ったそうなのだが、先輩はそんな忠告は受け入れないらしく、
「『だって面倒くさいやんか』って拗ねるんです」
と嬉しそうにクスクス笑いとともに報告してくれる彼女を見ながら、こりゃ期待薄だな、と心の中で嘆息していた。

この先輩が風呂に入らない理由は面倒だからと言うだけではなかった。
「水代とガス代が勿体ない」
そうなのだ。聞いた時は衝撃を覚えた。だって「必要経費」ではないか。シャワーを流しっぱなしとか、必要以上に追い炊きをするとかなら「勿体ない」のは分かる。が、日々の疲れと垢を落とすのに使うお金までケチるってどういう感覚の持ち主なんだろう、とあきれてしまった。

先輩の「ケチケチエピソード」は他にもあった。
彼女とデートの時、駐車場に無料でとめられる時間が迫ってくると、
「ちょっとここで待ってて」
といって彼女を一人その場に残して車を出しに行き、もう一度入庫しなおしてから戻ってくるそうなのである。
「あんた、やる?」
「いや。ありえへん。あんたは?」
「私もありえへん」
「そら勿体ないっちゃ勿体ないけどなあ」
同期の間でこんな会話を交わし、目を見合わせたものだった。

彼女はとことん優しい子で、そんな変な?先輩を温かい目で見守り、ほどなくして二人は結婚した。よーやるわ、と私達は思っていたのだが、一年も経たないうちにダメになった、という噂が聞こえてきて驚いた。
聞くところによると、先輩のケチケチぶりは結婚してからも変わることはなく、彼女の冷蔵庫の開け閉めにも姑のように口をだしたらしい。家計は勿論自分が百パーセント握り、彼女の自由になる金は月たった五千円程度だったというから、それは我慢しづらかったろう。
おまけに彼女は病弱な自分の父のところに結婚後も足繁く通っていたのだが、それにも小言を言われたという。結婚前は
「お父さんの気の済むようにしてあげたら良い」
と調子の良いことを言っていたそうなのだが、掌を返したようにブツブツ言われることが増え、ついに彼女は離婚届を置いて家をでた、ということだった。

湯水のようにお金を使うのは、限られた財産しかない時は大いに問題がある。財産があったって、そんな勿体ないことはしたくない。
が、やり過ぎて本当に大切なものを失ってしまうのは悲しい。
彼女の方は二年後に再婚したと聞いている。
先輩はどうしているだろう。
「結婚なんて、コスパ悪い」
と愚痴っているだろうか。