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ただ『見る』だけ

人は他の動物同様、『出来るだけ手っ取り早く自らの欲望を満たしたい生き物』である。
野生動物は自らの欲望を満たすために命がけで狩りをし、或いはエサを求めてウロウロと何キロも彷徨い歩く。外敵に襲われる危険も顧みない。腹を満たす為に本能で動いている。満たさないことは将来の死を意味する。つまり彼らの満たしたいという欲求は、生きたいという欲求そのものだと言える。
人間はちょっと違う。そうせざるを得ない状況下では動物のように振舞うことも稀にあるかも知れないが、大抵はそんな必要はない。そして動物は腹が満ちればそれ以上の要求をしてこない(一部のペットは別)のに対し、人間は腹が満ちても心が求めるままにもっと、もっとと要求し続ける。
つくづく罪深い生き物だと思う。

数多ある人間の要求の中で、扱いが一番難しいのが『己の存在を認めよ』という要求、即ち『承認要求』である。
承認要求は悪者ではない。親からエサを貰わねば生きていけない動物は、燕のヒナに代表されるように、我先に親に向かって自分をアピールする。因みに燕のヒナは、アピールが下手でも親鳥は均等にエサを与えるように出来ているそうだから、これはあまり良い例えではないのだが。
だから承認要求は、動物に当たり前に備わっている本能だと思う。
では承認要求がなぜ厄介者扱いされるかと言えば、先程述べたように『人間の要求には終わりがない』からである。承認要求が他者に向けてのアピールに終始する時、要求者は永遠に承認者を求め続けねばならない。同じ承認者では飽き足らず、もっと他の人、もっと多くの人、と対象を探し続ける。
しかし一つのコミュニティの中の人間の数には限りがある。地球全体から見ればちっぽけなその空間ですら、全く同じ考え方の人は実はそう多くは存在しない。その事実を知った時、己の要求が満たされないことを悟った人間は猛烈に不安になる。孤独を感じ、焦り、苛立つ。段々アピールの仕方は複雑で、素直さを欠いた見苦しいものになっていく。
そういう様子を呈する人間からは、自ずと人は離れていく。そこからは負のスパイラルの始まりである。

この負の連鎖をストップさせることが出来るのは、本人でしかない。
他者は気付きを与えることは出来ても、気付くことが出来るのは本人のみだからである。
先ず、自らの承認要求の矛先が外の世界に向いていることと、それが永遠に満たされることはないという事実に、しっかりと向き合うことが必要である。
この際自らを恥じる必要も、失望する必要も全くない。ただ『ああ、そういう自分がここに居るのだなあ』とそのまま『見る』だけで良い。『考え』も『判断』も要らぬことである。

この『見るだけ』がなかなか出来ない人は多い。知らず知らずのうちに、一生懸命『あるべき私』になろうとする。悲しいことに、傍目に立派と思われている、真面目な人ほどそういう傾向にある。
その『べき』の基準を決めているのは自分ではなく『他者』であり、その判断基準に盲従することは自分を失うことだと、早く気付いた方が良い。でないといつまで経っても自分の人生を生きられないまま、苦しむことになる。いくらお金が沢山あっても、イケメンの恋人がいても、立派な肩書があっても、この上なく美人でモテモテでも、これが出来ないと全然意味をなさない。いつまで経っても苦しむことになる。
『どうしてあの人が』というような事件が世の中からなくならないのは、このせいである。

『見る』は『承認』とは違う。
『見る』には判断は入らないが、『承認』には入る。判断を入れずに、先ずはそのまま現実を『見る』ことが必要なのだ。
その上で、
「あ、私はこういう風に思ったんだな。こういう思考をすることもある人間なのだな」
と思考のベクトルを自分の内側に向ける。この時もあくまでも冷静に、現実を直視する。
他者に認めて欲しいと思った自分を、そうなんだな、とそのまま受け容れる。積極的に愛しいと思うとか、『そんな浅はかな要求を持った自分を許す』とかはいちいち考えなくて良い。
『見ました』のハンコを押すだけで良いのだ。

そして
『どうしてこういう考え方・感じ方をしたのかな』
と少し自分の胸の内を掘ってみる。すると色々出てくる。ここでも判断を差し挟むことなく、出てきた自分の色々を一つ一つ丁寧に眺める。そして、
『ははあ、そういうことでこう考えた、こう感じた、のだな』
と、その思考に至った経緯をちゃんと検証して、腹に落とす。
ウンザリするほど長い時間がかかる、そんなことイチイチやってられっか、と思うかもしれない。
確かに慣れないうちはかかる。しかし根気良くやっていると、やがて思考回路が勝手にこの流れになる。すると胸のモヤモヤが晴れるスピードが、それまでの何倍速にもなる。
そのうち、この掘る作業が楽しくすらなってくるのだから、不思議なものだ。

自分に起こる全ての感情にダメ出しをする必要なんてない。承認要求だって、自分にとってその時必要だから起こっているからである。
承認要求をする自分に幻滅している暇があったら、せっせと自分の内側を掘った方が良い。
自分の人生を生きる為に。