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幸せの種を蒔く

誰でも穏やかに接してもらえれば嬉しい。心が緩むし、和む。温まる。
幸せを感じる。そして普通なら、自分からもこういう波動を他人に伝えようという気持ちに自然となり、行動が伴っていくものだと思う。
誰かを虐げようとか、蔑もう、恨もう、なんて考えは浮かんでこない筈だ。だから他人に穏やかに接して欲しいと思えば、自分から他人に穏やかに接するのが正解だ。
『あなたのしてもらいたいことを他人にしてあげなさい』
という聖書の教え?(だったと思う)はこういうことを言ってるんじゃないのかな、と思う。

穏やかに接しようと思えば、穏やかな心持でいなければならない。
しかし実際には色々なことが身の回りで起こる。中には神経を逆撫でされるようなことや、不愉快なことにも出会う。それに耐え忍ぶというのは身体と心に悪いから、やらない方が良い。
だからといって、思いがけず受けたこれらの災難をそのまま周囲に撒き散らすのは、公害以外の何物でもない。はた迷惑なこと甚だしい。
じゃあどうすれば良いのか。

不愉快だった、傷ついた、と自分が感じたことを否定しない。そう感じたことを当たり前のこととして、まず受け止める。物分かりの良い人間にならなくて良い。怒って良いし、悲しんで良い。
それから、『なぜ私は不愉快と感じたのだろう』と考える。すると自分のプライドやこだわり、考えていることがゆっくりと輪郭を表し始める。

例えば職場で上司から
『あなたのやってくれた作業は全く役に立っていない』
と言われたとする。私はどう思うだろう。
『おっといけない、間違ったことをしてかえって迷惑をかけてたか?本当はどうすれば良かったかな?正解を訊いて、今度からは間違えないようにしよう』
と反省するか。或いは、
『どうして?私は一生懸命やってたのに!』
と悲しんでむくれるか。或いは
『あの人は私のやることなすことにイチイチ文句を言うなあ。嫌いや!』
と上司を恨むか。
どの反応も私が取り得るものである。

『この作業をしておけば、みんなが助かるだろう』
というのは立派で素晴らしい考えであるが、そこに
『私がこの作業をしてやったから、みんなが助かるのだ』
といったような、上から目線の不遜な気持ちが少しでも入っているともういけない。これは他者に自分を認めさせたい気持ちの発露である。
こういう気持ちに見てみないふりをすると、指摘した上司を恨む気持ちが出てきたり、否定されたという事実にのみ着目し、必要以上に悲しむ、といった風な行動を取ってしまうのだ。
反対に、
『みんなが少しでも楽になると良いな』
という、一緒に働く人の笑顔が増えることのみを想像して、ワクワク楽しみながらする行為は、こんな歪んだ気持ちを生まない。間違ったことだったと指摘されればしょげはするだろうが、
『ああ、役に立たず残念だったな。でもどうすれば良いか、ちゃんと聞けたから次からはそうすれば良いんだ。今度こそ私も周りを幸せに出来そうだ』
と考えるだけである。

恨み、僻み、必要以上にオーバーな悲しみの誇示。
これらは『穏やか』とは程遠い。周囲を困惑させ、悪い波動を生む。
一旦は恨んでも、僻んでも、悲しんでも否定しなくて良いのだけれど、
『なぜ自分にはこういう感情が芽生えたのだろう?』
と落ち着いて振り返って考える時間が必ず必要だ。
自分にとって辛かったことを、振り返ってじっくり冷静に考えるには『勇気』が要る。『一見』惨めな自分を見つめなおすのは、『自己否定』するのと表裏一体の行為だからだ。
その『勇気』は『自分が自分をかけがえのない一人の人間として大切に思う気持ち』と『今、自分に与えられている沢山の幸せに気付くこと』によって育まれる。

常に穏やかに在るのは、私にはまだまだ難しい。
日々の忙しさにかまけて、ついつい自分をぞんざいに扱ってしまうことに気を付けねばならないなあ、と思う。ちょっとしたことに、
『おっと今、私自分を蔑ろにしてるんじゃないかな?』
と立ち止まって考えてみる。
日常にある当たり前の幸せに、あらためて目を向けてみる。案外、なおざりになってしまっているものだ。気を付けていないと、不満ばかり充満したオバケになってしまう。
一歩一歩は小さくても、少しずつ幸せの種を蒔いて行けたらと思う。
それで世の中をほんの少しでも幸せにしていけたら、こんなに嬉しいことはない。