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オモニ

若い頃担当したお客様に、Aさんという在日韓国人の女性がいた。ご主人を若い頃に病気で亡くして以来、自営業の女主として人を使いつつ、三人の子供達を女手一つで育て上げた。
こう聞くと物凄くごっつい肝っ玉母さんを想像するが、Aさんはとても小柄で華奢な女性だった。はかり知れない苦労があったと思うが、それを少しも感じさせない静かな柔らかい笑顔が魅力的な方で、私は初めて会った時から大好きになってしまった。
Aさんも私をとても可愛がってくれ、
「あんたは日本人やから、うちの息子の嫁に来てとはよう言わん。残念や」
と冗談とも本気ともつかないことを言って笑っていた。Aさん自身は美人ではなかったが、息子さんは私と年齢も近く、背も高く大変美男子だったから私はちょっと意識してしまって、息子さんが応対してくれるとドギマギしたものだった。

Aさんは『文盲』だった。日本語は普通に話せるが、読み書きが出来ない。だから伝票は全て代筆し、それを認証する印鑑のみAさんに押してもらうことになった。
「あんたが私を陥れることはないやろ」
と言って、Aさんはいつも笑いながら印鑑を押してくれた。
一度、融資課の課長から「この書類の代筆は好ましくないから、是非本人の自筆でサインをもらってきてくれ」と言われて書類を持参したことがあった。融資課長の言葉を伝えるとAさんはため息をついて、
「私なあ、小学校卒業してへんねん。字は無理や」
というので、驚いて理由を尋ねると、
「昔やろ。えらい虐められてなあ。学校行けへんようになってしもうたんや」
とポツンと言って寂しそうに笑った。言葉を継げなかった。なぜか申し訳なく思ってしまった。

三人の子供達は皆大変お母さん思いだった。私がノルマ達成のために様々なお願い事をしに行くと、
「それ、お母ちゃんのためになるん?損せえへんの?」
と内容について子供達から、必ず根ほり葉ほり問われた。勿論お客様が損するような商品は勧めていなかったが、たいして得にならないものは頼むこともあった。そんな時は大抵、
「それ、お母ちゃんたいして得にならへんやん。ええわ」
と一旦断られる。が、
「ええやんか、損せえへんのやったら。この子(私)に協力したげようや」
と逆にAさんが子供達に勧めてくれ、
「お母ちゃんがそう言うんやったら」
とAさんと子供達三人が協力してくれることもあった。

冬になるとよく庭のあちこちに、四つ割にした白菜が天日に干されていた。キムチを漬けるのだと言っていた。
「こっち(日本)は、向こう(韓国)ほど寒くないから、もう一つ上手く漬からへんなあ」
そう言ってAさんは笑っていた。
普通に話していると、どこの国の人かなんて全然わからないが、こういう時は韓国の人なんだなあ、と思った。

息子さんには永らく付き合っている彼女がいた。日本人だという事だった。
「『結婚は考えたらアカンで』って釘は刺したあるねん。『わかってる』って言うてる」
苦笑いしながらそういうAさんに私が
「もうそんな考え旧いんと違いますか。国際結婚って言う事になるでしょう?どこの国の人でも一緒ですよ。一度先方と話してみはったら」
と言ったらAさんは首を横に振って、
「国際結婚言うてもなあ、韓国人は違うねん。日本の人はそういう教育を長いこと受けてきてるさかいなあ」
と言って目を伏せた。
息子さんは暫くして彼女と別れ、Aさんの親戚から勧められた女性と結婚した。が、結婚生活は上手く行かず、相手は実家に帰ってしまった、とのことだった。
それを聞いた時、なんだか悔しかった。Aさんと息子さんが何か悪いことをしたわけでもないのに、なぜこんな思いをしなければならないのだろう、何か間違ってると思った。

結婚して退職することになり、挨拶に行ったら
「とうとうあんたも結婚するんか。寂しいけど、しゃあないな。おめでとうさん」
とAさんは泣きながら祝福してくれた。そして、
「うちな、この前みんなであっち(韓国)の先祖の墓参り行ってきてん。やっと、帰化することに決めたんや」
ときっぱりと言った。
「祖国を捨てるようで寂しいけどな。もう殆ど日本人や。生活するのに不便も多いしな。お父ちゃんも『ええで』って言うやろ」
寂しそうだったが、Aさんの表情はどこかさっぱりしていた。
決心するのにこれだけ時間がかかったんだなあ、とAさんやご家族の心の長い葛藤を思った。

今はどうしておられるだろうか。
今でも時々、「オモニ」のあのとんでもなく温かかった笑顔に無性に会いたくなる。