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年相応

先日小さな失敗をしてしまった。
ちょっと高級な帽子をお求めになられたお客様があった。ウチの売り場の殆どの商品はかなり安価だが、ほんの少しだけ百貨店と同じような商品も置いている。値段はやはり品質に比例する。レジで毎日いくつも見て手に取っていると、良さがすぐにわかってしまう。
私はつい癖で少しでも安くお求めになりたいだろう、と思ってしまう。その日は六十歳以上対象の特売日だった。年齢証明の出来る書類をお持ちだとほぼ全ての商品が一割引きになるのである。
お客様の外見から、多分それ以上だと思った私は、
「本日は六十歳以上の方だと一割引きになりますが、何か年齢の証明できるものをお持ちでしたらご提示をお願いいたします」
と言った。すると、その紳士は穏やかに微笑んで、
「ありがとう。残念だけど、僕五十九歳なんです」
と仰った。
背中一面に冷や汗が出た。平謝りに謝って、お見送りした。良い方で良かった。
店のマニュアルでは『こちらから年齢をお伺いしない事』となっている。マニュアルにはちゃんと意味があった。いい勉強になった。
それにしても、あの紳士は夫と同い年には見えなかった。

帰ってから、夫に確認してみた。
「なあ、私っていくつに見える?」
夫はめんどくさそうに私を見もせず、スマホをいじくりながら
「年相応」
と抑揚のない声で言った。
「そうかな?もっと若く見えへん?」
「年相応」
夫は平坦に繰り返す。チキショウ、やっぱりか。すると続けて、
「オレは?」
と訊いてきたので、
「年相応」
と同じ答えを返してやった。

「年相応」とは「その年齢にふさわしい」というような意味かと思う。
何を以て「ふさわしい」となるのだろう。そしてそう思うのは誰だろう。
日本特有の言い方かなと思ったが、外国でも似たような意味の言葉はあるらしい。
以前何かの雑誌で、外国のかなり高齢の女性がショッキングピンクのノースリーブワンピースを着て、大きなサングラスをかけて、脚を組んで椅子に座り、ジュースをストローで飲んでいる写真を見たことがある。モデルなどではないようだった。やっぱり外国だな、こういう色やデザインをこの年齢でも平気で着てしまえるんだな、と思ったし、この服がこのお洒落なおばあちゃんのワードローブに収まっている様を想像するのは楽しかった。
このご婦人のチョイスは、「年相応」ではないのだろうと思う。写真を見た時感じた小さな違和感と新鮮な驚きは、私がそう感じている事を示している。
私は何を以て「年相応じゃない」と感じたのだろう。

以前、甥っ子の結婚式に参列した時、二十代の時に買ったワンピースを着て行ったことがあった。デザイン的にどうだろう、と思ったのだが、大人しい色だし着てみると案外この年齢でもおかしくないように思えた。夫も
「別に、おかしくないで」
というので、頼りない意見ではあるが一応お墨付きは貰ったということにして、着て行くことにした。
後日、式の写真をみた姑が
「ミツルさん、ええワンピース着てはるねえ!わざわざ買うたんか?」
と感心した様子で言った。姑はこういうことに非常に敏感で、嘘をつけない人だと知っているので、素直に嬉しく、
「いいえ、二十代の時に買ったものなんですよ」
と答えたら、
「ええわあ。身に合うてる。上品なワンピースやねえ」
と姑はいつまでも嬉しそうにその写真を眺めていた。ちょっと照れ臭かった。

「身に合う」というのはもしかしたら関西の古い方言?なのかも知れない。「服装などが似合っている、雰囲気がその人にしっくりくる」というくらいの意味だと思う。
ひょっとしたら私はもっと地味な、大人しいデザインの服装をするのが「年相応」だったのだろう。しかし、二十代のチョイスでも他人が「身に合う」と感じるものもある訳だ。
人によって感じ方は違う。私のワンピースも人によったら「若すぎやろ」と思うかも知れない。全ての人の感じ方に合わせる事なんて土台無理なのだ。
「年相応」でなくても良い。いくつになっても自分の「身に合った」ものを選び、自信を持って着られるようになりたいものだと思う。