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ただいま絶賛成長中

「夫婦仲が良いですね」とよく言われる。有難いことだと思う。
今の私達を見て、数年前までギクシャクとして都合の良い時だけお互いを求めていた、よくわからない夫婦だったとは誰も思わない事だろう。
私の方は離婚届の用紙を常備していたくらいだったし、夫は夫でなかなかデリカシーのない発言や行動が多く、お互い思いやりの「お」の字もない二人だった。
私達の子供は難しくなるべくしてなった、と言える。

夫に対する不満は山ほどあったが、何よりも不満だったのは「私に関心を持ってくれない」ことだった。「明日までにこれを用意しておいてくれ」といった、いわば「上役からの命令・伝達事項」のようなことを言われ、子育てに関しては「もっと○○すれば良いのに」などの「部外者の感想」を述べられ続けるだけで、「私」という「個人」を「妻」としても「女」としても見てくれない、という気分が鬱積していた。
母からは「くれない族はダメよ」と言われたが、愛してくれない、振り向いてくれない、かまってくれない、と私は頭のてっぺんから足のつま先まで立派に「くれない族」であった。
喧嘩こそ滅多にしなかったけれど、お互いに上手く衝突を回避する術を身に着けただけのことで、妙な遠慮をしたかと思えばどちらかがマウントを取ったりする、アンバランスな生活が長く続いた。当時はそれこそが当たり前の夫婦の姿だと思い込んでいた。
自分の両親も同じような感じだったからである。仲が良いというより、お互いの心の機微をそれぞれが勝手に推測してお互いのことをわかったつもりになっている、もしくはそれを世間に装っているだけの夫婦。それが世間一般の「夫婦」の姿、という刷り込みが私の心の奥深くにあった。
夫も「夫婦ってこんなもんかな」と呟くように口にしたことがあったから、疑問を持ちつつも諦めに似た境地でこの生活を続けていくのだな、と思っていたようだ。

長い時間をただ一緒に暮らすだけでなく、共に喜び、共に悩み、時には対立もするけれど協力して家庭を編んでいく存在として夫を見ることが出来るようになったのは、子供のお陰だ。
『あんたをなおざりにしないでくれ』
という子供からの渾身のメッセージは、私を嫌でも私に向き合わせた。
自分を否定しないで大切にする。これを丁寧にそして懸命に続けた結果、自然と夫への感謝の念が湧いてくるようになった。
そうすると心からの感謝を込めた「ありがとう」と言う言葉が「出る」ようになった。努力して「出す」ようにしたのではない。勝手に「出る」ようになったのだ。
すると夫からも私に対して「ありがとう」と言う言葉が「出る」ようになった。滅多に言わない人だったのに、しみじみと口にする機会が明らかに増えた。
言って欲しいと思っていた時は言ってくれず、一切気にしなくなったら言ってくれるようになるのは不思議なものだ。

愛してくれないわけではなく、表現が下手であることを悟る。伝達事項が気に障るのは「よく準備してくれた」というねぎらいの言葉と態度で自分を癒して欲しいのに、満たされない不満があるから。と同時に「お前は俺にとって必要な奴」というわかりやすい承認が欲しかったからだと思い当たる。
そう思ってしまった自分は、そういう風に育てられたのだからしょうがない、夫は必要な要求をしているだけで他意はない、と事実を客観視して一先ず落ち着く。
子育てに対する意見に「まるで部外者」という気持ちを持ったのは、「私が一生懸命子育てに奮闘しているのを否定せずに認めてくれ」と言う承認要求と、「私の子育ては間違っているんじゃないだろうか。あなたが正解を教えてくれたらいいのに、どうして批判するだけなの?」という自律しない、不安な気持ちの発露だったのだろう、と振り返る。
不安だったのは自分が「正解」の下で育てられた気がしていないからだ。しかし過ぎ去った時は巻き戻せないから、これも時間をかけて潔く諦める。
すると全ては私の心の中の独り相撲だったことに気付く。

「自分の思い込み」というベールを剥いで夫を見てみる。
ギャンブルはしない。普通に「面白いと思えない」そうだ。酒は楽しくほどほどに嗜む。幅広い年代の友人が多い。ジャンル問わず読書好き。気が長い。面白いこと大好き。よく笑う。仕事を愛している。家族に手をあげたことはない。悪口と争いごとを心底嫌う。
女心に鈍感だし、整頓が出来ないのは超玉に瑕だけれど、これはこの人の個性。私が自発的に「そういう人」を選んでいるのだ。

「俺が結婚式の時、最後に挨拶で言った言葉、覚えてる?」
「え?忘れた」
「お前なあ…『お互い成長しあえる夫婦になりたいと思います』って言ったんやぞ」
「覚えてないわ、ゴメン」
「しゃあないやっちゃなあ」
「あんた、成長した?」
「おう、したぞ」
「安易すぎる返事やわ」
「お前は?」
「してる最中やで」
「なるほどな」

先日もこんな会話をして笑いあったばかりである。
これからも『成長しあえる』夫婦でありたいものだと思う。