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女として生まれたからには

雑誌やインスタグラムなどの、ジュエリーの広告を見るのが大好きである。
キラキラ光って芸術品のようで、大変美しい。眺めていてうっとりする。
しかし、私はジュエリーを全く着けない。着けたいとも思わない。結婚指輪ですら、ずっと外している。
決して夫と不仲なわけではなくて、単に『ジャマ』だからである。
炊事の時は濡れるし、夏は汗をかく所為か、変に痒かったりする。
子供の頃、母の傷だらけの結婚指輪を『こんなに傷だらけにしてまで、ずっと着けておく必要があるのだろうか』と常々不思議に思って眺めていたから、結婚指輪というもののイメージがあまり良くないのかも知れない。

稀に襟元が大きく開いたブラウスなどを着た時に、鶏ガラのような首が気になり、視線を逸らす目的でネックレスをすることもある。しかし年に一度あるかないか、くらいの頻度だ。
冠婚葬祭の折は、親に持たされたパールのネックレスを着けるようにしてはいるが、あまり好きではない。揃いでもらったパールのイヤリングなど、結婚以来一度も着けていない。そもそもあまりそういう機会もない。
なのに眺めるのは大好きなんて、結構変わった人間だと思う。

女として生まれたからには、女としての生を楽しみたい、とは思う。
しかしいつしか自分の外見を出来るだけ美しく見せたい、という欲求はどこか遠くに忘れてきてしまった。着飾ったり、化粧したり、といった行為は私にとって最早煩わしく鬱陶しいものでしかなく、手間と金のかかる嬉しくない作業になってしまっている。
ジュエリーを着ければ、帰ってから綺麗に拭いて、元通りしまわねばならぬ。当たり前のことだけれど、そのひと手間が死ぬほど面倒くさい。
結婚後でも、子供が小さいうちはそうでもなかった。子供の手が離れた方がそういうことに割く時間も取れそうなものなのに、不思議と忙しくてバタバタしていた子育て真っ最中の頃の方が、キチンと装っていたように思う。
なんで、いつのまに、私はこんなに『装わない女』になってしまったのだろう。

その原因を紐解いていけば、過去の私の様々な体験がゆっくりとあぶり出される。
どんなに可愛い服を着ていても、愛らしい妹と比較されて劣等感いっぱいで育った子供時代。派手なデザインのものは妹、地味なのは私、という当時あった我が家の暗黙のルールは、長い年月の間にすっかり私の根っこに染みついて、未だに取れていない。
化粧は若い折角の瑞々しい肌を傷めつける悪いこと、なるべくしない方が良い、という歪んだ価値観に支配されて育った。だから化粧を楽しむとか、化粧で元気になる、ということはあっても、心には常に小さな背徳感を背負っていた。

ジュエリーも同じだ。
贅沢なもの、華美なもの、不要なもの、そういう重い、後ろ向きな感覚が私の中にしっかりと植え付けられていた。間違っても『着けて楽しむもの』ではなかった。
だから不要な似合わないものを、後ろめたい思いをしながら身に着けるより、いっそ清々しく何も身に着けない方が心が楽なのである。
似合わないと思われている、分不相応なものを身に着けている、イケないことをしている、と後ろ指を指されている感覚に陥らなくて良い。
だから私はジュエリーを着けない、いやつける勇気が出ないのだと思う。
要するに自分に自信がない訳だ。

そんな私にも例外はあった。
結婚して初めての誕生日に、夫がくれたネックレスとイヤリングのセットは気に入って、よく着けていたのである。
滅多にプレゼントなんてしない夫が、わざわざ自分の為に選んでくれた、ということが凄く嬉しかったのだろう。
シルバー製で、主張のないごくごくおとなしいデザインだったが、なんにでも合わせやすく、使い易かった。
「お前、アクセサリー全然着けへんから、どうかと思ったんやけど」
夫はそう言いながら渡してくれた。
普段から着けてほしかったのかな、と少し意外な気がした。
そんな事には全く無頓着な人だと思っていたからだ。
しかし今考えて見れば私が自分に都合よく、夫を『そういうことに無関心な人、そういう人だから私”なんか”の夫になったのだ』と思い込んでいたに過ぎない。
夫を無関心な人に仕立て上げていたのは、私だったのである。

今週、夫からのお誘いで映画を観に行くことになっている。
久しぶりにあのネックレスとイヤリングを着けてみようか。年齢を問わないデザインだから、大丈夫だろう。
折角女に生まれたのだもの、随分遅まきだけれどたまには装う心を思い出してみよう。
夫は覚えているだろうか。どんな顔をするか、ちょっと楽しみである。










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