オクレさん、全力疾走する
最近、私の朝の仕事は少し変化している。新人Iさんの教育担当になった為である。
朝、二階の出納係の窓口で正面玄関とウチのレジの鍵を受け取り、全員分のインカムを一階の売り場まで持って降りてくる、という仕事をIさんにやってもらっているのだ。
早朝番要員として採用されたIさんに、まず覚えて頂きたいのがこの鍵の授受を確実に行うこと、だからである。Iさんは、なかなか覚えるのが『ゆっくりさん』なので、根気よく同じ作業を何度もやってもらう必要があるのだ。
その日の朝も、私はIさんより早く来たが鍵は受け取らずに一階に降り、バックヤードにある貴重品保管庫の鍵を開けると、掃除用具だけを手に売り場に急いだ。
この時点で大体八時四十分過ぎである。
Iさんはまだ来ていないが、そのうち来るだろう、と思いつつ、早めに床掃除を開始した。
開店してしまうといつレジに呼ばれるか分からないので、落ち着いて掃除が出来ない。だからいつも最初に床拭きを始めるのは、レジから一番遠い、正面玄関付近である。
その日も私は真っ先にその辺に行くと、すぐに掃除を開始した。
するとそんなに経たないうちに、警備員さんが一人、息せき切って走って来て、私に言った。
「あ、あんた、靴服の?」
何か言おうとしておられるが、息が切れすぎて言葉が出てこない。
ただならぬ慌てぶりに、私は不思議に思って手を止め、
「?はい、在間ですが」
とだけ答えて、次の言葉を待った。
私達従業員が出勤してすぐ顔を合わせるのが、入り口の守衛室に居るこの警備員さん達である。
若い人も居るが、大体は六十代後半から七十代くらいの男性だ。皆さん比較的愛想が良い。挨拶すると元気に返事をして下さる。
だが、中に一人、表情が読み取れず、全く口を開こうとしない人が居る。
挨拶しても知らん顔なので、従業員からもすこぶる評判が悪い。名札を見るとN田さんというらしい。七十代前半、といったところだろう。
太い黒縁の眼鏡をかけ、小柄で猫背で痩せている。制服は大きすぎるように見えるし、制帽もブカブカだ。
失礼だが、警備員の制服を着ている格好が吉本新喜劇のMr.オクレ(交番巡査バージョン)にそっくりなので、私は密かに心の中で『オクレさん』とあだ名をつけている。
この時やってきたのは、なんとこのオクレさんだった。
「今、Iさんから、お子さんの、具合が悪いんで、欠勤します、って、警備室に連絡、あって。在間さんに、言っといて、て言われて」
開店前は事務所の電話は留守電になっているので、急な欠勤連絡は警備室に直接入れることになっている。早い時間帯はインカムを着けている人が極端に少ない為、オクレさんは直接知らせに来てくれたのだった。
私は飛び上がって時計を素早く見た。
八時五十六分!あと四分で開店だ!!!鍵をもって来なければ、開店できない!
「ありがとうございますっ!」
ゼイゼイと痩せた肩を上下させているオクレさんに、走り出しながらお礼を言って、私は二階に全力疾走した。
「Iさん急に休み?頑張れー!」
出納のSさんが笑いながら渡してくれた鍵をひっつかみ、階段を駆け下りる。
「セーフ、セーフ!お疲れさん!」
リレーの襷を渡すように、走り込んで開け当番のNさんに鍵を渡す。
「開店しまあす!」
Nさんが号令をかけ、一斉にドアが開けられた。
間一髪、間に合った!ヤレヤレ、である。
開店の時は珍しく、オクレさんもその場でお客様を出迎えてくれた。どうやら息を整えるのに時間を要したらしかった。
お客様のお迎えが終わると、私は立ち去ろうとするオクレさんにこう言って頭を下げた。
「開店前の見回りでお忙しい時間に、ありがとうございました。言いに来て下さって、助かりました。おかげで間に合いました」
するとオクレさんは制帽の鍔をちょっとつまんで、私の方を見て二ッと笑った。私がオクレさんのそんな顔を見たのは、入社三年目にして初めてだった。
「間に合って良かったですわ」
オクレさんは笑顔のままで、短くそう言った。
私も二ッと笑ってオクレさんを見た。
オクレさんは今も相変わらず、無口で不愛想だ。みんなの評判もやっぱり悪い。
私も会話をしたのは、あの時っきりである。
でもその仏頂面を拝む度、息せき切って伝えにきてくれたオクレさんの姿が、今も私の瞼に鮮やかに甦る。
『悪い人』なんて、いないと思う。