見出し画像

小さい私

私は小柄な女である。
身長は百五十センチちょっと。小柄といっても世の中を悲観するレベルではないと思うが、大きい方でないのは間違いない。

小学生時代は背の低いものから順番に並ばされたから、私はいつも先頭の方に居た。しかし私の前には大抵、一人か二人の先頭を務める子がいたので、私が先頭になることは滅多になかった。
高校生になると並び方は逆になった。背の高いものから順に並ぶようになったので、私はいつもしんがりの方にいたのだが、やっぱり一番最後ではなくて、後ろからニ、三番目に居ることが多かった。
前に並ぶと先生方の目に必ず触れるし、なんならすぐそばに先生が立つことすらあったから、友人とふざけたりといったことはし辛く、後ろの方で時折注意されている子が羨ましかったりもした。
高校生になると後ろは後ろで不便なこともあるのだな、と知った。運動場などでは先生が拡声器を使ってくれないと指示が聴こえにくいし、前の方で何が起こっているのか伝わってくるのが遅いと、ちょっともどかしい思いがしたものだった。

今は当たり前のように自分が小柄なことを受け容れているが、子供の頃は本当に嫌だった。
早く大きくなりたくて、公園の一番高い鉄棒にぶら下がってみたりしたこともある。牛乳は大嫌いだったが、『代わりにヨーグルトを食べればきっとカルシウムが沢山摂取出来て身長が伸びる』と信じ、母にせがんで毎朝牛乳と一緒に配達してもらって食べていたのも懐かしい。五年以上毎日食べていたと思う。
しかし数々の努力も虚しく、私は結局小柄な人間のままだ。

私が子供の頃はまだ駅の改札は全て有人で、降りる時に駅員さんに切符を渡して回収してもらうようになっていたのだが、私は中学生になっても暫くの間、平気な顔をして子供用の切符を利用していた。
そんな事をしてもたいして得はしないのだが、塾に通う際、母から渡される交通費から幾ばくかを自分の懐に入れる為にやっていたのである。しかし感じる後ろめたさの割に実入りがあまりにも見合わず、すぐにやらなくなってしまった。
駅員さんを騙しているという罪悪感は勿論あったが、それよりも大人になり切らない未熟な人間であることを、自分で認めてしまっているような気分の悪さに閉口したのである。
今は自動改札だから、こんなことはないだろうが。

今や、自分が小柄であることを自分のトレードマークのように自然に受け入れ、『小さいのが私なんだ』と誇りのように思い込んでいる節すらあるのは、少しおかしいような、くすぐったい感じがする。
高いところにあるものは足継ぎなしには取れないし、電車で周りを大きめの人に囲まれれば何も見えなくなり、天井を仰ぐか足元を見つめるしかなくなる。デザインを気に入っても、試着すれば膝丈スカートはロングスカートになり、ハーフコートはロングコートになるなんてことはしょっちゅうだ。
色々と不便でがっかりすることも多いのに、なんで今私は『小さい私』に心のどこかで満足しているのだろう。

学校では否が応でも『順番』があって、それに従うことが強要されていた。その定めに不満を持ち、抗おうとすることで、私はコンプレックスをため込んでいたのだろう。私にとって長い間、『小さいことは他より劣っていること』だったのだ。
年齢を重ねるにつけ、自然とそういうシーンは減っていく。
やがて『小さくて可愛い』などと褒め言葉まで頂くようになる。大きくなりたい子供の頃はこの言葉すら、自分を貶めるように感じる辛い言葉だったりしたけれど、いつしか素直にそう思えるようになっていた。
頑なに一つの価値観で自らを支配していた時代を抜けて、私の私に対する考え方が柔軟になっていった、ということの現れだろう。

私と同年代だって、小柄なことをコンプレックスに感じている人は居るだろう。
でも今のところ、私は『小さい私』がお気に入りだ。
小さいことを悲しく諦めているのでもなく、ギラギラと周囲にアピールするような気でもない。『そう言えば私は小さいけど、まあ別に良いか』というくらいの、軽い気持ちである。
『小さい私』を気に入っている私。それでエエやん。