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ウィドウ冥利に尽きる夜

夫は昨夜から、一泊二日の単独登山に出掛けた。行先は南アルプス。毎年のことだ。
一人は何かあった時危ないからやめてとか、遠いからもっと余裕を持って行かないととかいう言葉は、夫にとっては思いやりではなく、単なる雑音としか響かない、ということを悟ってからは、もう何も言わないことにしている。その状態にも慣れてしまった。
前日から嬉々として支度を整え、仕事を終えると
「ほな、行ってくるで」
とだけ言い残して、夫は機嫌よく出かけて行った。

夫がどこかに遊びに行く時の言葉は、いつもこれだけだ。
「しっかり戸締りしろよ」なんてこちらを思い遣る言葉なんて、一度も聞いたことはない。まして、「一人にしてすまんな」なんて言葉は、夫の口から出よう筈もない。
心にもないことが言えないのは、この人の良い所でもあり、欠点でもある。思いやるフリをするなんて小細工は出来ない。本当に思いやるなんてことも、もっと出来ない。まんまの自分を、オレはこういう人間だ、と全部肯定している。羨ましくなるくらいである。
昔は夫がこうやって出かける度にイチイチ腹を立て、出て行った後のドアを蹴り倒したいくらいの気分だったが、私のそんな可愛らしい時代は、もう太古の昔になってしまった。
今は、
「さ、私は今晩何しようか」
とちょっとウキウキしたりする。
こんな調子だから、夫が心配しないのもある意味当然である。

夫不在時の楽しみは、なんといっても食事である。
普段は夫の好みと栄養バランスを考えつつ、値札とにらめっこしながら品を選び、冷蔵庫に残っているものは何か、と忙しく頭を回転させながら買い物を済ませる。不器用だから夕飯の準備には小一時間近くかかってしまうが、こんなに色々と心を砕いても、食べれば一瞬だ。食べ終わればすぐに片付けが待っている。我が家には食洗器はない。
面倒くさくても、毎日のことで健康に直接影響が出るから、疎かに出来ないのがなんともしんどい。
しかし、夫が不在の時は違う。
毎日買うにはちょっとお高い、お気に入りのサラダを買って帰る。一人前だから、お値段もそんなに気にしなくて良い。
主菜はその日の気分で何を食べるか、決める。『私』が『本当に食べたいもの』を『好きなように』選ぶのは、いつもにはない楽しみだ。
選ぶだけでも十分楽しい。口にすれば更に幸福感は増す。

食べながら、好きなドラマを好きなだけ観る。
「またそれ観てんの。お前、それ好きやなあ」
と人の好みを無視したあざけりの言葉を聞くこともないし、
「こんな時間まで観てんと、もう寝ろや」
という、子供に命令するような口調の『労りの言葉』を頂戴することもない。
途中でうたた寝したって咎める人はない。
誰にも邪魔されない、私の為の、私だけの時間である。

昔は『○○ウィドウ』なんて言い方があった。
『ウィドウ』という言葉は『寡婦』『未亡人』という意味の他に、『夫が趣味などに夢中になっていて、相手にしてもらえない妻』のこともいうらしい。
あら。バッチリ私やん。
『相手にしてもらえない』という行には、『相手にして欲しいのに』という但し書きが入るのだろう。しかしお生憎様、そんな可愛らしく拗ねる妻は九割九分卒業した。
百パーセント、と言い切れないのは、歳はいっても私も女の端くれだからであろう。ご愛敬である。

きっと日焼けした顔をピカピカに光らせて、
「ああ、楽しかった」
と言って帰ってくるんだろう。お土産はきっといつもと同じ、汗まみれの山のような洗濯物だけだ。
天気が良いから乾くし、それももう良い。無事で帰ってくれれば、それ以上は何も望まない。
この人はこういう人。潔く諦めた。
こういうのを『惚れた弱み』っていうのかな。いや、『熟年夫婦の諦め』の方がしっくりくるのか?
どちらにしても、この諦めが夫婦円満の秘訣なんだろう。

サラダをつまみながら白ワインをゆっくり飲みつつ、これを書いている。
夫のくれた至福の時間が、静かに過ぎていく。
幸せだなあ。